「イェ~イ」とDJバーを盛り上げ

ギターも弾いていた

他方

幸せにできないから、と女性との

交際を拒否

過去に神奈川県警と接触も?

 

50年前の連続企業爆破事件のメンバーとして指名手配され、偽名で逃亡を続けていた桐島聡容疑者(70)。末期の胃がんを患い、「最後は本名で死にたい」と自ら名乗り出た男の願いは虚しく潰え、本人と証明できぬまま、1月29日、“自称元過激派”として鬼籍に入った。

 

  〈写真あり〉爆破されたビル、大破したクルマ…多数の死傷者をだした三菱重工ビル爆破事件の現場

 

DNAの検体 「拒否します」

社会部デスクが解説する。 

「桐島とみられる老人は、“内田洋(ウチダ・ヒロシ)”と名乗って神奈川県藤沢市内の工務店で約40年も前から住み込みで働いていました。身長160センチで身体的特徴は桐島容疑者と矛盾はないものの、顔は整形をしていたとみられ、お馴染みの手配写真とは似ても似つかなかった。工務店関係者が “ウチダ”として長年接してきたものの、全く気づかなかったのも無理はありません。しかし、偽名のため健康保険証は取得できず、1年ほど前に体調不良に陥った際も自費で医療機関を受診し、胃がんと診断されたようです。通院はしたものの回復せず、今月に入って工務店の寮の近くの路上で倒れ込んでいるところを近所の人が見つけ、近くの大型総合病院に搬送されたときも『ウチダヒロシ』を名乗っています」 しかし、死期が近いことを悟ったのか25日、“ウチダ”は病院関係者に「本当は桐島聡です」と打ち明け、神奈川県警と警視庁のドタバタが始まった。社会部デスクが続ける。病院に警視庁公安部の担当者が聞き取りに行ったところ、手配の桐島聡と矛盾するような供述はなかったものの、ときおり意識を失うなど既に危篤状態に近かった。本人はもちろん自分の証明資料を持っていませんから、頼みの綱はDNA鑑定になる。ところが照合用のDNAの検体の提供を桐島のある親戚に依頼したところ、あっさりと『拒否します』と断られたようです。無理もありません、親戚からしたら桐島容疑者のおかげでこの50年近く世間からは疎まれ、公安関係者から見張られ続けてきたわけですからね」 そして老人は「自称桐島」のまま29日、絶命。警視庁公安部は被疑者死亡で書類送検をするため、粛々とホトケが指名手配容疑者だったことを証明する作業を続けるしかなくなった。

もしかしたら警察にも ...

長年にわたって“ウチダヒロシ”として世間を欺いてきた男の素顔はどんなものだったのだろうか。

工務店のすぐ近くに住む80代の男性は、こう話した。 「工務店ができたのは今から40年以上前。ウチダはその頃はまだいなかったから、住み込みで働くようになったのは40年近く前のことかな。内田の部屋はうちの隣のアパートの2階だよ。手配写真とは全然印象が違うね。髪も短髪でメガネもしてなくて、最近は白髪まじり。それに常にツバのある帽子、バケットハットを被ってたからね。コロナ前はマスクもせず堂々としていたよ。中肉中背だけど、ウチの女房は『ここ最近は痩せ気味だったわね』なんて言ってたな。今思えば、口まわりは少し手配写真の面影があるかな」 男性は当初、この男の名前も知らなかったが、工務店関係者が“ウチダ”と呼ぶのを聞いて、自然と「ウチダなんだ」と認識していったという。 

「隣に住んでるから最低でも月一回ぐらいは顔を見たけど、挨拶するくらいでちゃんとした話はしたことないな。近所の人と話してるとこも見たことない。最後に会ったのは、去年の暮れか年初め。すぐ近くの道端で顔を合わせて『今日仕事は休みか?』って聞いたら『具合悪くて病院行くんだ』って返事してたな」 近所でもおとなしく、目立たない生活をしていたという“ウチダ”だが、酒と音楽が好きだったようだ。男性が続ける。「10年くらい前までは酔っ払って帰ってきてはラジオを大きい音でジャンジャンかけたりしてたよ。昔はバンドをやってたのか、フォークギターを弾くこともあったね。ラジオがあまりにもうるさいから夜中に『うるせえじゃねえか!』って文句言ったり、その辺に落ちてる角材で窓を叩いたりしたんだけど、酔って寝てるから全然聞こえてねえんだよ。そのうち、後ろの家が警察に通報したみたいで、それからラジオはかけなくなったな。警察が親方に言ったのか、ウチダ本人に言ったのかわからないけど、もしかしたら警察官にも会ってるかもな」 仮にウチダと接触していたのであれば、神奈川県警は「チャンス」を活かせなかったのかもしれない。 「一応、工務店で働いてるからか、ウチダが余ったコンクリとか廃材で家のまわりのじゃり道を舗装してくれたことがあったよ。別に俺は頼んだりしてないけど、自分も使う道だから歩きやすくしたかったんだろうな。1人で一輪車押してせっせと少しずつ造ってたよ。今回の報道であの『桐島』が死んだとか見ても、ウチダと同一人物だとは知らなかったから、何とも思わなかったよ。でも今日それを知って、『そんな感じの人じゃないのになって』ていう思いだね」

「幸せにはないから」

指名手配がかかり“逃亡犯”だった“ウチダ”には、趣味の酒と音楽に浸れる憩いの場所があったようだ。近くのDJバーでは“ウッチー”という愛称で知られた存在だった。60代の男性マスターが語る。「ウッチーがウチの店に来るようになったのは20年くらい前からで、最近だとコロナ前の2019年ごろまでは来てました。頻度は月に1回程度でしたかね。住まいが近いからか、最後に寄ってくれてたこともあり、結構酔ってることもありました。ウチでは大体2、3杯飲んで帰ってました。 音楽はブルースやロックが好きでしたね、特に誰が好きとかはなかったですけど、ジェームス・ブラウンとかサンタナみたいに、60~70年代のものが好きでしたね。ウチに置いてあるレコードもそのあたりなので。

昔の話などは一切聞いたことないですね、するのは世間話くらいでしたよ」 マスターは“ウッチー”の自宅にも遊びにいったことがあるという。「15年くらい前に一度だけ行ったことがあります。『自分はビデオデッキやテレビが無いんだけど、人からもらったサンタナのライブのビデオテープがあるから』ってことで自宅に譲り受けに行ったんです。ウッチーの見た目は白髪混じりの短めの髪型で、ジャンパーとジーンズとかトレーナーとジーンズって感じのカジュアルな服装でした。見た目の特徴だと上の前歯が一本なかったですね。性格も特に悪いイメージはないですね。タバコは吸ってました。ビールが好きでいつも店では生ビールを飲んでました」 D Jバーでも人目をはばかるような素振りは見せず、堂々としていたという。 「お店で行われるイベントやライブのときも盛り上げ役にまわってくれて『イェ~イ、イェイ、イェイ、イェイ!』って彼独特な声援を出してくれてました。ミュージシャンの人とも盛り上がってましたよ」 友人や知人と連れ立っている姿は見たことがなかったという。 

「お店にはいつも1人で来てましたね。最初から1人です。音楽が好きだったので、自分で足を運んで見つけてくれたんじゃないですかね。お店とはそれなりにいい付き合いをしてたと思います。指名手配の写真とは全然印象違いますね。黒縁のメガネをかけてくることもありましたけど、髪の毛も長くなかったし。ただ、女性との付き合いの話題になったときに『自分は幸せにできるタイプじゃないからと言って断った』と話していたのは印象に残っています。10年以上前のことですね。お相手は30歳ぐらいの女性だったみたいですけど。好きというより、向こうから交際になりそうな雰囲気だったけど自分から断ったと聞いてます」 

「ウッチー」はほかのバーにも出入りしており、そこも音楽を聴ける店だったという。マスターが続ける。 「ウチにはそのバーに寄ってから来てたみたいですね。とにかく音楽が好きだったんでしょうね。ウチでもダンスミュージックが流れてたり、ライブのときには、体を揺らして踊ったりもしてましたね。ギターもやってたみたいで、ウチの店でもその場の曲や雰囲気に合わせてちょっと弾いたりすることもありました。飲んで陽気にしてくれる人って印象でしたね」 マスターにとっては同じ音楽好きの同世代の陽気な「ウッチー」に、裏の顔があったことはいまだに信じられないようだ。

 

 

その2

昔の話はしなかった

工務店に勤務・銭湯通いの生活

 

警視庁公安部に確保された桐島聡容疑者(70)を名乗る男が死亡しました。 

近所の人によりますと、桐島容疑者を名乗る男は、勤務する神奈川県藤沢市内の工務店近くにある2階建て住宅に住んでいたそうです。関係者によりますと、男は『内田洋』という名で働いていました。 コロナ禍の前、この人物と顔見知りだったという飲食店の店主は、こう話します。 

飲食店の店主:「コロナ前は、お風呂に行く途中、洗面道具を持って行くところや帰りの道すがら会って、普通に挨拶して『こんにちは』と。そんなに“ガリガリ”という印象はない。僕が知る限りでは元気そうでした。

Q.指名手配の当時の写真と比べると?

全然、印象が違いますね。

Q.来店時、名前はなんと名乗った?

本人からというよりも“うっちー”という通り名があったので、そういう形で僕らも認識していました」 この飲食店には、20年ほど前から、月に1回程度、通っていたそうです。 

Q.店に来たときはどんな様子?

普通のおじさん。

Q.べろべろになるまで飲んでいた?

そうですね。ビールが好きでしたね。たばこは吸っていたと思います。一緒に誰かと来た印象はない。大体1人」 ここはライブも行われる店で、内田という人物は、観客で来たことがあったそうです。 「たまたま、そのときは大所帯のバンドが入ってたんですけど、“イェイイェイイェイ”と独特な感じで、周りを盛り上げてくれて、ミュージシャンも『ああいう人がいると、楽しいよね』と。お店の中では、気分が良くなると、踊ったりしていましたね。自然に体を動かしてるって、そういう踊り。

Q.どんな音楽で?

特定の音楽というよりは、テンポの良いダンスミュージックのようなものが流れているときに、それに合わせて。

Q.どんな音楽が好き?

ブルースだったり、ロックだったり。ジェームス・ブラウン好きでしたし、60年代・70年代くらい(の音楽)。

Q.昔の話は一切していない?

しませんね。 そういったなか、10年以上前ですが、女性との交際話を聞いたことがあるそうです。 女性との付き合いがあるときに、『幸せにできるタイプじゃない』と断ったのは印象に残っている。

Q.若いころの話?

割と最近の話という感覚。

Q.断ったのは交際か結婚か?

交際という認識」 コロナ禍になってからは、来店していないということです。 2週間ほど前、内田という人物を助けたという近所の人は、こう話します。「青いジャンバーを着ていて、下は紺のズボン。入り口で倒れるというか、立ち上がれなくて、しゃがみ込んでいて、通りかかった人が1人で助けようとしたけど、重いから手伝ってくれと言われて、手を貸して、住んでいる奥まで連れて行った。こんな人いたかなと思っていたが、抱えながら、どこと言うと、奥って言うので、住んでいるところがここと言うので、ドアを開けて、家の中に座らせてあげた」 住んでいる部屋を見て、違和感を覚えました。「乱雑な感じで、どこに寝泊まりしているのかなと。2階に上がる階段があったので、上で寝ているのかなと思った。ストーブも2台くらいあって。昔式のストーブで、やかん置いたり、鍋置いたり、2台くらいあったけど生活感はない。(鍵を)開けて入って、座るところすらない感じだけど、どかして座らせてあげた。木製の板の間だよね。(中は)ゴミみたいな。食べ残しじゃないけど、弁当とか」 関係者の話では、この工務店は、社長を含め5人程度で、内田という人物への給料は、現金で手渡しだったといいます。ここでは、数十年間、働いていたということです。 捜査関係者によりますと、男の身長は160センチほどで、桐島容疑者と同じ背格好。28日までは、捜査員に対し、本人しか知りえない事件についての情報を話していましたが、29日朝、死亡しました。末期の胃がんを患っていましたが、保険証を出すことはなく、自費で治療を受けていました。 桐島容疑者は、三菱重工爆破事件など、1974年から10件以上の連続爆破事件を起こした東アジア反日武装戦線のメンバー。ただ一人、一度も逮捕されることなく、逃亡を続けていました。

 

高卒という感じで…歯がなかった

36年来の友人語る人物像 

半世紀の潜伏生活 誰の支援も受けず

 

ヒゲを蓄え、ビールジョッキを持つメガネをかけた男。これは桐島聡を名乗る男が、内田洋の名前で通っていたという、とあるバーで撮影された写真だ。撮影されたのは約10年前で、50代後半の頃の姿とみられる。 約半世紀にわたる逃亡生活は、どのようなものだったのだろうか。

 

  【画像】男が自身の生い立ちについて、友人に話していた内容

 

連続企業爆破事件への“後悔”も

男の36年来の友人はこう証言する。

当時、男のことを何と呼んでいましたか?

 俺なんかは「うーやん」ですね。

 最後に会ったのはいつですか?

 1年くらい前です。10年くらい前までは、月に2~3度(会っていた) この友人男性は、男の生い立ちについて、次のように聞かされていたという。 出身は岡山。魚屋やってたって。高卒っていう感じで振る舞ってました。高校を出て、友達が大学に入ったから、その友達にくっついて東京に来たと言っていましたね。 友達のとこに下宿して、転がり込んでいたと 男の振る舞いについては、こう記憶していた。臆病な感じの。おとなしくて、お酒飲むと陽気になっちゃう。鼻歌歌ったり。保険証もないから、歯が全然なかった。

 49年前の連続企業爆破事件に関与したとして、重要指名手配されていた過激派「東アジア反日武装戦線」のメンバー、桐島聡容疑者(70)。 自分が桐島聡だと名乗り出た男は、1月29日午前7時33分、末期の胃がんにより入院していた病院で死亡した。 捜査関係者によると、男は桐島容疑者であると名乗ってから警視庁公安部が行った任意の聴取に対し、「事件について後悔している」という趣旨の話をしていたことが分かった。 これまでの捜査で、男は内田洋という名前で約40年にわたり、神奈川・藤沢市で生活し、市内の工務店で長く住み込みで働いていたことが分かっている。働きながらの逃亡生活については「誰の支援も受けず、逃亡していた」と話したという。 警視庁は、DNA型鑑定で男が桐島容疑者と特定されれば、容疑者死亡のまま書類送検する方針。

 

 

半世紀に及ぶ困窮生活 

寝る場所もないほど散らかり

桐島聡容疑者の指名手配写真(警視庁HPから)

 

連続企業爆破事件(1974~75年)に関与したとして、爆発物取締罰則違反容疑で指名手配されていた過激派「東アジア反日武装戦線」のメンバー、桐島聡容疑者(70)を名乗る男が、29日に死亡した。男は警視庁公安部の任意聴取に対し、「後悔している」と話していたという。関係者の証言などから、男の困窮した生活が浮かび上がった。

 

  【写真】「桐島聡」とみられる男が住んでいた建物 

 

末期の胃がんだった男は29日朝、神奈川県鎌倉市内の病院で死亡した。公安部はDNA鑑定などで本人確認を進めている。今後、本人と確認されれば、容疑者死亡で書類送検する方針だ。 男は昨年1月ごろから、自費診療で通院していたが、今月、体調が悪化して入院した。健康保険証を持っていなかったという。25日になって自ら「桐島聡」と名乗り、連絡を受けた公安部が身柄を確保した。重篤だったため病院内で短時間の聴取を断続的に重ねてきた。 捜査関係者によると、男は「最期は本名で迎えたい」といい、爆破事件についても話していたという。 男は数十年前から神奈川県藤沢市の工務店で「内田洋」を名乗って働いていた。20年ほど前からは職場近くのバーに通い、周囲から「うっちー」と呼ばれていたという。 バーの男性オーナーによると、コロナ禍前には月1回ほど1人で来店していた。陽気な音楽好きで、店のライブでは「イェイ、イェイ」と声援を送って踊り、盛り上げていた。人目を気にするそぶりもなく、オーナーは「普通のおじさん。不幸な様子もなく、指名手配の写真とはまったく印象が違う。びっくりだ」と話した。 よく似た男は、近くの別のバーにも約20年前から1人で通う姿が目撃されていた。ほそぼそと話す特徴があった。桐島容疑者は広島県福山市生まれだが、男は「岡山県出身」と話していたという。 店長は「よく飲み歩いていたようで、近辺では知られた存在。愛されるキャラクターだった」と振り返った。 男は今月前半、工務店近くの路上でうずくまるほど体調が悪化し、近所に住む会社員の男性らに自宅へ担ぎ込まれた。げっそりと痩せて、ガリガリだったという。 自宅は工務店そばの木造とみられる建物で、6畳ほどの室内には、弁当の空き箱、段ボールなどで寝る場所もないほど散らかっていたという。

桐島容疑者は、75年4月19日に東京・銀座の韓国産業経済研究所入り口ドア付近を手製の時限爆弾で爆破した疑いで、同5月に指名手配された。警視庁は当時、爆弾製造や現場の下見などを担当する役割だったとみていた。連続企業爆破事件に関わった同戦線メンバー10人のうち、唯一逮捕されずに49年間逃亡を続けていた。

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なぜ自首しなかったのだろうか

桐島容疑者が指名手配されてから約50年。逃亡生活を続けさせた理由は、本人の死により尋ねることはかなわない。報道によると桐島容疑者は偽名を用い、80年代から神奈川県藤沢市内の工務店で住み込み就労し、銀行口座は持たず、給与は現金手渡しだったという。さらに、今回の入院時には、保険証など身分を証明するものを所持していなかった。 偽名を使い、身分証も持たない状態で逃亡し続けた桐島容疑者の心情はいかなるものだったのか。東アジア反日武装戦線で桐島と行動を共にした黒川芳正は1987年に無期懲役が、宇賀神寿一も1990年に懲役18年の刑が確定したことを知り、人生を塀の中で終えたくないという理由から半世紀近くも逃亡生活を続けたのか。 桐島容疑者が事件を起こしたのは1975年、彼が21歳の青年時代である。「若い時の過ちなら、50年も逃亡せず早目に自首しておけばもう少し幸せな人生を送れたのではないか」という向きもある。 自首とは刑法第42条1項に「罪を犯した者が捜査機関に発覚する前に自首したときは、その刑を減刑することができる」と、規定されている。確かに桐島容疑者は「自首しておけばもう少し幸せな人生を送れた」かもしれない。一方で、同輩が無期懲役判決を受けたことを知った容疑者は、逃げ続けてやると腹をくくった可能性も否めない。

毎日の様に「出頭しようか」と煩悶

逃げ続けることの苦しさは、並大抵のものではない。

『死刑囚になったヒットマン――※「前橋スナック銃乱射事件」実行犯・獄中手記』(文藝春秋、2024年)に記された小日向将人死刑囚の述懐を読むと「関係のない人を巻き込んでしまった罪悪感から、毎日のように『出頭しようか、出頭すべきだ』と何度も思いましたが、家族が組織に狙われることが心配で、どうすることもできませんでした」と煩悶していた様子が窺える。 そして、潜伏先のフィリピンでは、自室で幽霊を見て「私はスナックの事件で亡くなった方々の霊が出たのだと思い(中略)教会に行き祈りをささげました」という。 

 

※ 2003年、暴力団抗争によって一般人3人が犠牲になった事件 

 

桐島容疑者の事件では、死者こそ出ていないものの、当時は世間の耳目を集める大きなニュースであったことから、裏社会でいうところの「サツヨレ」、すなわち、常に警察官に見張られているような錯覚が生じ、心休まる暇がなかったのではなかろうか。桐島容疑者も「出頭しようか、出頭すべきだ」と煩悶したであろうことは想像に難くない。 こうした重大事件の実行犯は、逮捕されたら人生の大半を刑務所に収容されて過ごすことになる。万一、行動を共にした黒川芳正のように無期懲役判決を受けたら一生娑婆の空気を吸えず、獄中死も考えられるのだ。

なぜ「自首」できない?

自首は簡単そうで難しい。筆者が就労支援や保護司で対応してきた刑余者をみると、そもそも犯罪の実行に着手する際、リスク面の認識が甘いケースが散見される。例えるなら「飲酒運転しても自分なら捕まらない」というような根拠なき甘さだ。刑余者のケースを見るに、犯行が短絡的であり、想定される結果の想像力が欠如し、先の見通しができない人が一定数存在する。 さらに、その犯罪を、責任の否定(仕方なかった。社会が悪い)、加害の否定(盗んだんじゃなく借りてただけ)、被害者の否定(あいつの態度が悪かった)、被害者の非難(自分たちだけいい生活しやがって)、忠誠心への訴え(仲間のためにやった)等の理屈で、犯罪を合理化・中和している。これでは、自分の行為に反省がなされず、自首など望むべくもない。

現代ならではの「自首しづらさ」

ただ、そうはいっても、すべての犯罪者が自首をしたくないわけではない。昨今横行している闇バイトなどの従事者のケースでは、「逮捕されたから(闇バイトを)やめられた」「逮捕されてホッとした」等という声がある。 一方で、自首して逮捕された場合、刑罰を受けることに加えて、社会的な制裁を恐れる声も側聞する。それはたとえば、銀行口座が開設できないことや、ネット上に残るデジタルタトゥーにより就職できないことなどである。 昨今の日本社会は厳罰化傾向にある。加えて、デジタルタトゥー問題にみられる犯罪情報の社会における共有、銀行口座等の契約主体になれなくなる可能性などから、1970年代の桐島容疑者の事件当時より自首がなされにくい環境にあることは否めない。

 

廣末 登  1970年、福岡市生まれ。

社会学者。専門は犯罪社会学。龍谷大学犯罪学研究センター嘱託研究員、法務省・保護司。2008年北九州市立大学大学大学院社会システム研究科博士後期課程修了。著書に『ヤクザになる理由』『だからヤクザを辞められない』(ともに新潮新書)、『ヤクザと介護』『テキヤの掟』(ともに新潮新書)、『ヤクザと介護』『テキヤの掟』(ともに角川新書)等がある。