数多くの自殺を目撃してきた精神科医

春日武彦氏が語る「自殺とは何か」

 

日本は自殺大国である。人口10万人あたりの自殺者数は18.5人、先進国(G7)の中で1位という不名誉な地位を獲得している(2019年データ)。昨今では、宝塚歌劇団に所属する、いわゆる「タカラジェンヌ」の女性が自ら命を絶つという事件もあり、「自殺」というテーマは日本人の関心の的である。 

 

【写真】2008年に起きた秋葉原通り魔事件  

 

精神科医の春日武彦氏は、自らが臨床の場で目の当たりにした自殺や、方々から収集した過去の自殺事例を分析、とりまとめた『自殺帳』(晶文社)を上梓した。なぜ人は自殺をするのか、自殺をする理由にはどのようなものが考えられるのか。春日氏に話を聞いた。(聞き手:関瑶子、ライター&ビデオクリエイター)  

 

今回の『自殺帳』という本ですが、「自殺」をテーマにしているにもかかわらず、「命は大事だ」「自殺はやめよう」というメッセージが書かれていませんでした。なぜこのような本を書こうと思われたのでしょうか。  

春日:「命を大切に」だとか「自殺はよろしくない」なんて当たり前のことです。わざわざ書く必要もありませんし、書いてしまうと、説教がましい本になってしまう。そういう本にしたくなかったというのが正直なところです。「自殺」をテーマに本を書こうと思った理由はいくつかあります。  

以前、私と全く面識のない人が、書評ブログのようなところで私の本を紹介してくれているのをたまたま見つけたことがあります。すると、その最後に「この本の作者はいつか自殺するのではないか」なんて書いてあるんですよ。その文章を見て、自分はひょっとしたら無意識に自殺しそうなオーラのようなものを出しているのかもしれない、と思ったんです。それ以降、なんとなく自殺のことが気にかかるようになりました。また、私は精神科医として、長らく臨床の場で多くの患者さんの自殺を目の当たりにしてきました。彼ら、彼女らのほとんどが自殺前に自殺しそうな気配が全くなく、亡くなった後で医療従事者は無力感と「なぜ自殺したんだろう」という何とも言えない感覚に苛まれる。

さらに、自殺した人がいると、第三者である我々は自殺の理由をいろいろ考えてみたくなる。例えば、とある会社の社長が自殺した。すると私たちは、会社のお金を使い込んでいたのではないかとか、部下と不倫していたのではないかとか、女装趣味があったのではないかとか、いろいろと下世話な想像をしてしまうわけです。自殺は、下衆なかたちで我々を引きつけてやまない。このあたりを追究してみたいということもこの本を書いた理由の一つです。  

確かに、亡くなった理由を知りたくなりますね。  

春日:また、今回は書籍の最初と最後に、私が実際に体験した患者さんの自殺の話を書きました。この二人は、私にとって忘れがたい人たちです。特に、最後のほうに書いた患者さんは、自殺をしているにもかかわらず、ちょっとユーモラスなんですよね。この二人のことがずっと自分の中で引っかかっていて、何かのかたちで自分なりに書き残しておきたかったという気持ちもありました。

 

■ 懊悩の究極としての自殺とは何か?   

人間以外の動物で自殺をする動物はいません。なぜ人類は自殺をするのでしょうか。  

春日:人間は、自分と他者は違うということをはっきりと意識しています。他者と比較して、劣等感や悔しさ、恥ずかしさを感じることができる。これこそが、自殺の要因になるのです。

今回、書籍の中で、自殺の理由を7つに分類されていました。そのうちの一つに「美学・哲学に殉じた自殺」という分類がありました。  

春日:自分で分類しておきながら、この自殺理由は疑わしいものだな、と感じています。自分の見た目が歳をとってきてどんどん崩れてきた、あるいは、いろいろな事情で自分の思想や信条を貫くことができなくなった、だからこれ以上生きている意味はないという理由で自殺することを「美学・哲学に殉じた自殺」として分類してみました。そういうことをアピールして死ぬことに対して、あざとさを感じざるを得ない。逆に恰好悪いな、と。  

今回、あえて自殺を7つに分類してみましたが、自分の経験や自殺について調べてみたものと照らし合わせてみると、「一見こう見えるけれども、ちょっと違うのではないだろうか」だとか「本当は他の分類に該当するのではないか、重複するのではないか」というものばかりでした。自殺の理由なんて結局よくわからない。よくわからないと気持ち悪い。何でもいいから、わかりやすいかたちで着地しないと安心できない。だからとりあえず「美学・哲学に殉じた自殺」ということにしておくと落ち着くわけです。「美学・哲学に殉じた自殺」であれば、死人に花を持たせるという意味でちょうどいい手打ちになりますしね

自殺の分類で「懊悩の究極としての自殺」というものがありました。  

春日:一つのことに異常に固執し、それが失敗した、失望した、という結果となった時、悲観のあまり精神的視野が狭くなり、自死という選択肢しか見えなくなる。これが、懊悩の究極としての自殺です。  

何かに失敗した時に、うまく切り替えができる人とそうでない人、さらには自殺にまで追い込まれてしまう人には、どのような違いがあるのでしょうか。

 

■ 人間が持つ3つの「心の弱点」  

春日:心を切り替えるということは、失敗を認めるということです。これって、意外と難しいですよね。人間の心の弱点は、プライドとこだわり、被害者意識の3つであると私は考えています。自殺に追い込まれるような状況でなくても、私たちは心穏やかでない時、この3つのどれかに囚われてしまっていることが多いですよね。心を切り替えるということは、頭の中に選択肢を準備しなければなりません。この準備には、相応のエネルギーが必要です。そのため、失敗を人のせいにして被害者面をすることだってできます。そういうわけで、失敗を認められない人というのは、存外多くいるのではないでしょうか。  

失敗を認められず、ずるずると悪い方向へと行ってしまう。自分でもまずいな、ということは解っていながらも、切り替えることができない。そして追い詰められた時に、自殺をするのか否かという点は、最終的には自殺の準備状態がある人とそうでない人か、によって決まるのだと思います。例えば、辛いことが連続して身に降りかかっているような人は「自殺の準備状態」にあると思います。そういう人は最終的に些細なことが決定打として自殺をしてしまいます。

失敗をしたときに、他者や社会に責任転嫁して通り魔事件を起こすという人もいます。あれは、どのような心情から起こるものなのでしょうか。  

春日:確かに最近では、通行人を殺して死刑にしてもらおうという無差別殺傷事件が起きています。彼らがどこまで死を望んでいるのかは解りません。唯、一人だけで自殺をするのは面白くない、社会では散々嫌な目にあったから、恨みを晴らしてやろうという気持ちがあるのだと思います。ある種の合理的な考え方ではありますが、中二病っぽくてダサい。いい年をして、中二病的合理主義を主張するのは品がない。品性が下劣だという結論に帰結すると思います。

本当に自殺をする人、できる人というのは自ら電車の前に身を投げる、高いところから飛び降りるという、すさまじい恐怖を乗り越えた行為によって可能となります。「死」に対するパッションが恐怖を超越しなければ、自殺はできないということでしょうか。  

春日:ある種のパッションというのはあると思います。ただ、最終的には精神が乖離状態になっているのだと思います。夢遊病みたいな感じですね。そんな中でも「死ぬ」というミッションが頭の中に焼き付いているので、自動的に「死」に向かうことができるのではないでしょうか。ただ、私も電車を待っている時に、ものすごいスピードでホームに入ってくる電車を見て「よくここに飛び込めたな」と感心することがあります。

 

■ 生き恥をさらして責任をとるのが一番の「謝罪」  

遺書については、「死に際にして最後の言葉の多くはまことに散文的で、意表を突かれたり身震いするような文章はまず滅多にない」と書かれていました。これは自殺をする人が、夢遊病のような状態にあるからなのでしょうか。  

春日:何通も何通も遺書を書く人もいます。そういう人は、まだ生きることに未練がある、死ぬ覚悟ができていない状態で、遺書を書き始めたのではないかというのが私の考えです。遺書を書いている間は生きていられますから。その一方で、同じような文面の遺書を何度も何度も書くという行為は、ミニマル・ミュージックを延々と聞いているようなものです。その中で現実感が薄れていき、「遺書を書く」ことが自殺に踏み込むための段取りになっている人や、遺書を書きながら「本当に自分は死にたいのだろうか」と自問自答をしている人もいるかもしれません。  

謝罪としての自殺について、「勝手に自殺をして『もうこれ以上に詫びることは不可能です』とコミュニケーション打ち切りを宣言」「詫びられる側の態度が相手を自殺に追い込んだかのように周囲から勘繰らてしまう」と批判めいたことを書かれていました。一方で、世間的には「死を以て詫びる」ということがいまだに美学のようになっているように感じられます。  

春日:そうですよね。潔いだとか、これ以上ない詫び方だというように捉えられていますよね。でも「死んで詫びればいいんでしょ」というような、少し投げやりな印象も受けませんか。死んだら、線香一本でチャラにしろっていう話ですよね。そりゃないよって思います。生き恥さらして責任をとるのが一番の「謝罪」だと思います。  

死んで詫びることもそうですが、情死や心中も美化されがちだと指摘していました。このような死を美化する考え方は、今後も日本では変わらないと思われますか。  

春日:情死にしろ心中にしろ、残された者は言葉を失うほどショックを受けるでしょう。そうなると、美化して納めましょうという気持ちにならざるを得ない。さらに、情死については、天国で結ばれる恋にしてやらないと浮かばれないというのが日本人の発想なのでしょうね。死体を蹴飛ばしてもしょうがない

今回の書籍で印象に残っているのは、1998年に起こった国立三社長心中事件です。一家心中でも、情死でもなく、中年男性三人が揃って死ぬということが、非常に不思議に感じられました。  

春日:これは、当時はかなり話題になった事件です。ただ、この事件が報道されると、「同性愛だったんじゃないか」だとか、そんな邪推をする人も出てくるわけですよ。どうもそうでないらしいとなった時に、彼らは自分たちに酔っていたんじゃないかななんて私は思いました。事業が立ち行かなくなった会社の社長三人が、心中というかたちで壮烈な「討ち死に」を果たす。そんな英雄譚めいたストーリーを思い描いて、彼らは、内心で自分たちのことを恰好いいなんて思っていたのではないか。ついつい、そんな下衆なことを考えてしまうんですよね。自分たちに酔っているわりには、死ぬ前に牛丼と缶ビールを買って安ホテルで最後の晩餐をしていた。なんだか滑稽ですよね。  

仮に三ツ星レストランでのディナー後に高級ホテルのスイートルームで心中をしていたなら、納得がいきますか。

春日:納得いく部分とそうでない部分がありますね。「三ツ星レストランに高級ホテルなんて気取りやがって」だとか「そんなお金があるのなら、それを賠償金にまわせ」だとか。つまり、生きている人間というのはものすごく勝手なんですよ。どんな自殺であっても、絶対に邪推してしまう。自殺はよくないよなんて陳腐なことを私は言いません。ただ、自殺したいという人に対しては、そういう下衆な邪推を引き受ける覚悟で自殺したほうがいいよ、とアドバイスしたいですね。

 

■ 最も印象に残っている衝撃的な自殺  

これまでで、最も印象に残っている自殺について、教えてください。  

春日:身寄りも仕事もない、結構お年を召した患者さんがいらっしゃいました。  

この人は、本当に発作的に自殺を繰り返す。そんなに自殺をしたいのなら、電車に飛び込めば一発で死ねるでしょって思うのですが、そういうことはしないんです。だけれども、たとえば包丁をしっかり腹膜まで届くように腹部に突き刺すなど、自殺に対する「本気度」はたしかに見られるんです。普段は敬虔なキリスト教徒で、教会に通ったりしているような方で、とても自殺を繰り返すようには見えない。  

ある時、その方が大けがをして病院の救急に運び込まれた。少し精神状態に問題があるようなので、当時私が勤務していた精神科病院のほうに転院してきました。初めは解放病棟にいらっしゃったのですが、やはり自殺を繰り返すんです。それで、ちょっと危ないぞということで、私が担当していた閉鎖病棟に移ってきました。  

こちらとしても、何とかしようと思っていろいろ検査をしました。脳に障害があって、一種のてんかん発作のようなかたちで自殺発作を起こすのではないかと考え、脳波を計測したりCTを撮ったり手を尽くしたのですが、結局、身体面では何の問題も見つかりませんでした。ただ、やはり危なっかしいので、当分は閉鎖病棟にいましょうということになりました。そうしたら、ある日、その方は本当に自殺してしまいました。その自殺の方法がすごかった。トイレに置いてある固形の使いかけのぬるぬるの石鹸。それを自分で喉の奥に突っ込んで窒息して亡くなってしまった。そこまでして自殺をするというのは、こっちとしても予想できるはずもない。だって、石鹸ですよ。おそらく、すさまじい苦痛の中で亡くなったのだろう、と。本当に絶句してしまいました。

我々としても、どう言っていいのかわからない。病院側の管理ミスという気もしないわけです。かわいそうというのともまた違いますし、そんなに死にたかったのなら死ねてよかったね、というのも的を射ていない。心の着地点が見つからないんです。

先生は、いまだにその出来事を消化できていないという状況なのでしょうか。  

春日:たしかに、そういうふうな事案を抱えているということは、気持ちは悪い。でも、そういうふうな「異物」も抱えていなければ、私自身、医療従事者としても人としても、調子に乗ったり、傲慢になったりしてしまうのではないかと思うんです。  

生きていく上では、多少の反省材料というものは必要なのではないでしょうか。仮に私がこれまで何の挫折もなく、順風満帆な人生を送ってきていたとしたら、ろくでもない人間になっていたでしょう。ろくでもない方向に向かいがちな私を、真人間に近づけるような一種の置き石となるような貴重な体験だったと思っています。

 

■ 私が考える「正しい自殺のありよう」  

先ほど、死ぬ時は死後の邪推を引き受ける覚悟をしましょうというお話がありました。果たして、正しい自殺の理由や正しい自殺の仕方は存在するのでしょうか。  

春日:「正しい自殺の仕方」となると、失敗せずに首を吊るコツだとかの方法論になってしまうので、「正しい自殺のありよう」についてお話できればと思います。世の中が平和で満ち足りていたとしても、自殺はなくなりません。個々の事例として見れば、自殺というのはまぎれもなく悲痛な話ではありますが、マクロな目で見れば、自殺というのも何か意味があるのではないのでしょうか。  

私が思うに、自殺はやはり周囲の人間の心を揺さぶるものです。交流のあった人物がいきなり自殺したら、亡くなった人のみならず、自分自身の心の闇や奥行きをも探ろうとして、我々はいつしか思索を巡らせるようになります。そういう営みは、突き詰めていけば哲学や思想、場合によっては美術につながっていくものです。そういった意味で、たまには人間の心に揺さぶりをかけないと、人類なんてどこまで思い上がり尊大になるかわかったものではない。仮に、私が創造主で人間を創るとしたら、精神というプログラムの中に、戒めとして「ときおり自殺に走る」という不可解な衝動を少し潜ませておくでしょうね。そうでないと、人類はどんどん増長するばかりです。時には反省したり、考え込んだり、頭を抱えるようなプログラムを入れておくと思うんですよね。これは完全に私の妄想です。でも、そういうふうに個別的な痛ましさとは別に、自殺というのは何か大きい意味があるのかもしれないと思っています。だから「正しい自殺のありよう」とは、安直な解釈や物語を拒むような、つまり残された人たちが困惑し居心地が悪くなるような自殺だということになるでしょうね。シニカルな意見に聞こえるかもしれませんが。  

 

 

 

■相談窓口 ・こころの健康相談統一ダイヤル:0570-064-556  

※受付時間は都道府県によって異なります ・あなたのいばしょ チャット相談(https://talkme.jp/)  ※24時間365日 誰でも無料・匿名 ・厚生労働省HPに自殺対策相談窓口一覧があります。

 

 

関 瑶子

 早稲田大学大学院創造理工学研究科修士課程修了。素材メーカーの研究開発部門・営業企画部門、市場調査会社、外資系コンサルティング会社を経て独立。You Tubeチャンネル「著者が語る」の運営に参画中。

 

 

 

 

なぜだかこの映画を思い出した。
 
ラブホテル 映画 相米慎二監督

巨額の借金を作って人生に絶望した男・村木(寺田農)が、ラブホテルでホテトル嬢・名美(速水典子)を呼んだ。村木は名美を道連れに自分も死ぬつもりだった。が、彼女を陵辱するうちにその気が薄れ、結局出来ずにホテルを去った。

2年後、村木はタクシー運転手に転職して妻・良子(志水季里子)と共に 小さなアパートで暮らしていた。ある日、タクシーにあの日のデリヘル嬢・名美が乗客として乗り込んだ。名美の注文は夜の港だ。送り届けて去ろうとしたところで、村木は名美が入水自殺を図ろうとしていることに気付いた。村木は慌てて名美の自殺を制止した。

村木は、名美に事情を訊いた。名美は服飾店員で、妻子ある上司・太田(益富信孝)と不倫関係にある。この関係はすっかり泥沼だ。接客中に太田の妻・正代(中川梨絵)が怒鳴り込みに来て、泥棒猫と罵られることもあった。名美は村木に頼んだ。太田の自宅にある自分の写真や書類を取り返して来て欲しいと。負い目があったこともあり、村木はその依頼を引き受けた。無事写真を取り戻して引き渡すと、名美は感謝して村木に身を委ねるのだった。

翌朝、名美が目を覚ますと村木は消えていた。名美は村木のアパートを訪ねた。そこで、名美は村木の妻・良子と擦れ違うのだった。