山田太一さん

僕は視聴率はとれません

取材メモで振り返る素顔と言葉

11月29日に死去した山田太一さん

 

脚本を芸術の域に押し上げた山田太一さんが老衰のため死去した。89歳だった。

決して声を荒らげない温厚な人だったが、内面は熱かった。約12年の取材ノートから山田さんの素顔を浮き彫りにしたい。 

 

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脚本家としてのプライドが強い人

「1970年代前半まで、私たちドラマの脚本家は無いに等しい扱いを受けていました。役者さんにとっても脚本家の存在は小さく、収録が終わると脚本をクズ籠に捨ててしまう人すら珍しくありませんでした」日陰の存在だった脚本を芸術の域に押し上げたのは山田さん、倉本聰さん(88)、向田邦子さん、早坂暁さんたちである。  

山田さんは謙虚で控えめな人だったが、脚本家という仕事には強いプライドを持っていた。NHKでのヒット作「銀河テレビ小説 江分利満氏の優雅な生活」(1975年)が筆者にとって思い出深いと話すと、「あれは私の作品ではありませんので」と渋面になった。小説家の山口瞳さんによる原作があったからだ。オリジナルしか自分の作品と認めなかった。一方で初期の代表作であるTBS「ポーラテレビ小説 パンとあこがれ」(1969年)が面白かったと伝えると、「そうですか、観てくれていたんですか」と相好を崩し、創作の裏話を話し始めた。  

山田さんは50年以上も脚本を書き数多くの作品を残したが、一貫していたことがある。「私のドラマでは殺人事件は起きません」刑事ドラマもミステリーも手掛けたことがない。はっきりとした自分のテーマを持ち続けていたからだ。それは「人間の実像」を描くことだった。 「人間は無数の小説やドラマ、映画で描かれましたが、いまだよく分からないところがあります。分からないからこそ、書き甲斐があります」

学歴と人間の真価は別の物

 一方でメッセージ性が強いのも山田作品の特色。通っている大学の偏差値によって、人間性までランク付けされてしまうような風潮に強い疑問を抱き、書いたのが1983年からの4部作「ふぞろいの林檎たち」(TBS)。中井貴一(62)ら3流大生たちの物語だった。中には「山田さんが一流大(早稲田大教育学部国語国文科)卒だから、他人事として書けた」と捉える向きもあるようだが、それは全く違う。山田さんの自宅に近い川崎のデパート内の喫茶店で、「大学ごときで人間としての価値まで判断されては、たまりませんよね」と聞かされた。この考え方は本人の生育歴も影響している。「僕の生家は東京の浅草で食堂を営んでいました。周囲もすべて商店。家にあった本は落語全集や講談本くらいです。10歳だった1944年、戦況が悪化したため、家族そろって神奈川県湯河原町へ行きましたが、ここも知的な環境とは言い難い環境でしたね。周囲に住んでいたのは芸者さんや旅館の番頭さん、太鼓持ちの人たちでしたから。でも人間として立派な方がたくさんいました」山田さんは「ふぞろいの林檎たち」で学歴と人間の真価は別の物であると繰り返し訴えた。温厚な人だったものの、内面は熱かった。

名作「車輪の一歩」秘話

今も歴史的名作として語り継がれているNHK「男たちの旅路」(1976年)シリーズの「車輪の一歩」では、障がい者との共生を呼び掛けた。約90分の作品だったが、これを書くため、3年も障がい者たちと交流した。 

「あのころは障がい者の方のためのインフラが整備されてなく、皆さん大変な思いをされていた。歩道の段差さえ配慮されていないし、車椅子の方は付添人がいなければバスに乗れなかった。映画館に行くと、『空いている時に来い』と追い返される始末でした」山田さんは「障がい者の方はもっと周囲の人の手を借りてもいいんじゃないか」と考えるようになる。「誰かに頼み、手伝ってもらえばいい。ところが、日本人は『他人に迷惑をかけてはいけない』と教え込まれていますから、障がい者の方々は遠慮してしまう。自宅から出にくいような状態でした」そして生まれた「車輪の一歩」では、鶴田浩二さんが扮した主人公のガードマン・吉岡晋太郎が、世間に気兼ねして外出を控えている車椅子の若者たちに対し、こう語り掛ける。山田さんの思いを代弁した。 「人に迷惑を掛けないというのは、今の社会で一番疑われていないルールかも知れない。しかし、それが君たちを縛っている。迷惑を掛けてもいいんじゃないか。いや、掛けなければいけないんじゃないか」ラストシーンでは母親に外出を止められていた車椅子の若い女性(斎藤とも子・62)が、吉岡の言葉に勇気付けられて外出し、高い場所にある駅舎に上がろうとする。独力では無理だったので、意を決し「誰か私を(駅舎まで)上げてください!」と叫んだ。通行人は当初、その声に戸惑うが、1人が女性に駆け寄ると、次々と人が集まり、女性と車椅子を駅舎まで上げた。 「そもそも車椅子を持ち上げたりすることぐらい、迷惑なんかじゃありませんよ」

強い共生意識

この作品は障がい者の方々にも絶賛され、今も福祉関係の大学などで教材として使われている。高齢者との共生の必要性も口にしていた。 「僕たちは現在と未来のために生きているように見えますが、実は過去のほうが膨大なんです。その過去をつくったのは老人たち。老人たちを厄介者扱いするのは、もったいないことだと思うのです」共生意識を持つ人だったので、2007年に愛知県大府市で認知症の男性(当時91)がJR東海の線路内で列車に跳ねられ、死亡した上、その妻と長男に多額の賠償金が請求されると、珍しく声を強めた。「認知症の方が増える中、あまりにむごい話です。こんなことがあって、いいはずがない」その後、裁判となるが、結果は山田さんの言葉通りになった。家族の責任を認めた1、2審判決を2016年に最高裁が破棄。家族に責任は問えないとした。山田さんには社会の在るべき姿を見通す目もあった。

岸辺のアルバム

「八千草薫出演」熱望の理由

 山田さんにとって、フジテレビ「早春スケッチブック」(1983年)も思い入れの強い作品だった。大学時代からの親友である劇作家で歌人の寺山修司さんが評価してくれたと嬉しそうに話していた。 

「寺山君は、山崎努さんが演じた男(家族を捨てた元カメラマン・沢田竜彦)と自分を重ね合わせながら見てくれていたようです」山田さんは早大の国語国文学科で同期だった寺山さんと入学早々に親しくなり、寺山さんがネフローゼで入院すると、連日のように見舞いに行き、病室で文学論や芸術論を語り合った。療養に差し支えると思った寺山さんの母親が「もう来ないで下さい」と山田さんに告げたほど。やがて世に出た2人は早くから認め合っていた。行動力もあった。

昭和のドラマの最高傑作と評される「岸辺のアルバム」(1977年)の主演に予定されていた八千草薫さんが竹脇無我さんと不倫する設定を嫌がり、出演を辞退しようとしたところ山田さんが説得した。「八千草さんのように絶対に不倫をしそうにない人に演じてほしいと頭を下げました」当初は静かに物語が進んだこともあってか、第2回の世帯視聴率は8.7%。だが、口コミで評判が広がり、最終回では20.0%に達した。

「視聴率はとれませんよ」

 山田さん自身は「僕は視聴率を獲れる作家ではありませんよ」と笑っていた。確かに山田さんの作品に突出した視聴率のものはない。殺人事件など刺激的な設定がないせいだ。そもそも数字を狙っていなかった。それなのに多くの視聴者の人生観や価値観に影響を与えた。希有な巨匠だ。  

八年前、一番好きな本を尋ねた。その答えに山田さんの本質の一端が表れていた。その本とは米国の女性小説家のメイ・サートンが書いた『回復まで』(中村輝子訳、みすず書房、2002年)だった。「この本は彼女自身の1978年からの1年間が日記風に書かれています。当時の彼女は自信作を発表した直後。ところが、その作品がニューヨーク・タイムズの書評で酷評されてしまいます。内容が批判されたのではなく、『彼女は同性愛者だ』と叩かれたのです。まったく不当な話で、彼女は酷く打ちのめされました。小説も書けなくなってしまいます。ようやく自分を取り戻すのは1年後。その過程が書かれています」共生が考え方の下地にある山田さんは不当な差別を許さなかった。もちろん、作品でも差別やいじめを認めなかった。

唯一の大河ドラマには分身が

 権威や常識を鵜呑みにせず、反骨精神の塊のような人だった。これは戦争も影響している。11歳だった時に迎えた敗戦で世の中がガラリと一変したからだ。

「戦時中の先生たちは『鬼畜米英』を唱えていながら、敗戦と同時に『米国が正しい。日本が間違っていた』と様変わりした。権威や常識と言われるものを簡単に信用してはいけないと思いました」

山田さんは1作だけNHK大河ドラマを書いている。菅原文太さんが主演した1980年の「獅子の時代」だ。時代設定は幕末から明治維新で、文太さんが架空の会津藩士・平沼銑次を演じた。「文太さんが扮した平沼は反政府、反権力の塊のような男でした」鉄次は山田さんの分身でもあったのだろう。  

一方で暮らしは庶民的。会うのはいつもデパート内の喫茶店だった。ホテルのラウンジなどを指定されたことはない。すぐ近くでは主婦と思しき人たちがお茶を飲みながら歓談し、うるさいぐらいに賑やかな喫茶店だったが、気にしなかった。川崎での別れ際には「買い物をして帰りますから」と口にすることがあった。夕食のおかずである。夫人思いの人でもあった。多くの俳優たちが嘆き悲しむのは頷ける。 

 

高堀冬彦

放送コラムニスト、ジャーナリスト。大学時代は放送局の学生AD。90年のスポーツニッポン新聞社入社後は放送記者クラブに所属し、社会部記者と専門委員として放送界のニュース全般やドラマレビュー、各局関係者や出演者のインタビューを書く。10年の退社後は毎日新聞出版社「サンデー毎日」の編集次長などを務め19年に独立。

 

 

 

死生観と最後の創作意欲

いつ死ぬか分からないのが悩み

 

 

 

 

 11月29日、脚本家の山田太一さんが老衰のため亡くなった。89歳だった。  

1977年に放送されたドラマ『岸辺のアルバム』(TBS系)が大ヒット。平和で幸せそうな中流家庭の崩壊を描き“辛口ホームドラマ”と呼ばれ、新たなジャンルを確立。1983年に手がけたドラマ『ふぞろいの林檎たち』(TBS系)では、四流大学に通う落ちこぼれの学生たちの青春を描き、『パート4』までシリーズ化された。

 

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作家としても活躍したが、2017年に脳出血を発症して入院。2019年の春ごろには“音信不通”と取り沙汰されたことも。「退院後には県内の老人ホームにひっそりと入っていました。仕事復帰に向けてリハビリに励んでいましたが、以前のように身体の自由がきかず、“脚本家の僕を知っている人たちとは、もう会いたくない”と漏らしていたそうです」

晩年には“死”について口にすることも多くなった。 「“いつ死ぬのかわからないのが悩み”だと話していました。死んでもおかしくない年齢になって、だんだんと未来が描けなくなっていったそうです。そんなもどかしさを感じつつ、“死についてワッと書けたら素晴らしいですね”と、創作意欲も見せていました」一方で“死ぬのは怖くない”と、独自の死生観についても言及していた。 「“人はどんな死に方をしても、その直前に幸福感で満たされる”という説を信じていました。ドラマでは“ふぞろい”な人間の弱さや愚かさを描いていましたが、死に対しては“公平性”を求めていたようです」  

死んでも誰かの心の中に生きてる

中でも『ふぞろい』で主演を務めた中井貴一は、 

《出演が決まり、初日の本読み、顔合わせの時も、物腰柔らか。しかし、本読み終了時、“私の台本は、語尾の一つまで考えて書いておりますので、一字一句変えない様に芝居をして下さい”と、ピシャリ。物腰とは裏腹に、実に辛辣にお話をされる方でも有りました》  

と、当時を振り返り、 《台本を通して、私に芝居というものを教えてくださっただけでなく、その台本から、人としてのあり方までも教わった様に思います。言い尽くせぬお世話になりました。でも、もう一度、山田さんの台本で芝居がしたかった》 と、別れを惜しんだ。本人の希望により、葬儀は家族のみで執り行うという。  

山田さんは生前、死後についてこうも語っていた。 「死んだ人も誰かの心の中に生きていると思いたい。本当にいなくなるのは、その人も死んでしまったとき」 

“脚本家の巨匠”とその作品は、これからも人々の心の中で生き続けるだろう。

 

桃井かおり、水谷豊ら

飛躍に導いた脚本家死去 

日本の放送文化の大きな損失

89歳で亡くなった脚本家の山田太一氏(遺族提供)

 

脚本家の山田太一さんが老衰のため亡くなった。89歳だった。日本を代表する脚本家、シナリオライターで、俳優やスタッフを飛躍に導いた。  

NHKの山田太一シリーズ「男たちの旅路」(76年~82年)は、今春の再放送も含め、何度も見た。ガードマンの仕事が舞台。第1部~第4部(各3話)とスペシャルを含め、13話放送された。特攻機の整備士として戦争を体験した吉岡司令補(鶴田浩二)と、戦後生まれの若いガードマンとの対立や信頼、愛憎などを通し、社会や人間関係の問題点を描いた。13話すべてが名作だった。第3部(77年)で放送された「シルバー・シート」には、志村喬、笠智衆、加藤嘉、藤原釜足、殿山泰司の名優がそろって出演。老人として扱われる人々の心理を描き、同年度の芸術祭大賞を受賞している。

鶴田演じる吉岡警部補とぶつかり合う部下を、森田健作、水谷豊、柴俊夫、桃井かおりらが演じた。特に水谷と桃井はこの番組後に大ブレークした。水谷は日本テレビ系「傷だらけの天使」(74年10月~75年3月)で、萩原健一とのコンビで、型破りでコミカルな探偵を演じ注目された。その翌年から「男たちの旅路」に出演。78年に同系「熱中時代」シリーズに出演して、視聴率の取れる俳優として大ブレークしていく。 

桃井は75年に、倉本聰脚本、萩原健一主演の日本テレビ系「前略おふくろ様」(75年10月~76年4月)に出演。元ホステスのトラブルメーカー役を演じ、人気に火が付いた。この番組と並行して「男たちの旅路」に出演。そして77年の映画「幸福の黄色いハンカチ」(山田洋次監督)で、日本アカデミー賞など多くの助演賞を獲得するなど、名俳優に駆け上がっていった。  

ロックバンドのゴダイゴも、「男たちの旅路」の音楽を担当して、メジャーバンドへの足掛かりをつかんだ。ゴダイゴは同番組が始まった76年にアルバム「GODIGO」でデビューした。同番組の第3部の「墓場の島」(77年)には、人気バンド役として出演もした。そして、翌78年に日本テレビ系「西遊記」で、オープニング曲「モンキー・マジック」とエンディングテーマ曲「ガンダーラ」を担当し一躍、人気グループとなっていった。  

「男たちの旅路」は内容の高評価だけでなく出演者やスタッフも成長する契機となった。因みに鶴田浩二の遺作は山田太一さんのNHKのドラマ人間模様「シャツの店」(86年)だった。頑固な洋裁店主を演じた。日本の放送文化の大きな損失である。