記憶をクリーニングする。

 

私だと思っているものはすべて記憶だ、記憶の束が私だということをきいたことがある。そうすると 記憶をクリーニングするということは 私がクリーニングされていなくなるということだ。

 

全部をクリーニングするんだけれど、まず、取り掛かるのが時間の記憶 時間も距離も同じものでどちらもない というところに落ち着くために 時間の記憶をクリーニングする。

 

私の場合は かなり根深いのでやりがいがある。なにかあるたびに時間を気にしている、いつもまず時間がある だから時間はいつもクリーニングできるということだ。

 

考えてみると 時間に依存していて 時間に合わせて動いている

時間が来たから終わろうとか 何時の約束だから時間を逆算して動くとか もう生活全部だ。 このことをやめて 時間からフリーになることが怖い という気持ちがあることに気が付いた。

 

やっぱり ここでも怖れがある。この怖れも記憶から生まれてくる物 ということはこれも記憶をクリーニングすることが 解決策ということか。

 

丹田に向かって 「愛してます」 という、目の前に現れた思いがクリーニングされる。思いというのは記憶だからひとつづつ 消えていくんだ、これにいつも気付いている。もっと繊細に気づいている

事が私には必要だと思っている。

 

もっとこまめに 丁寧に暮らす、つまり生きること。

 

今日はこんな結論になってしまった。でもこれは事実だ やるしかない、全ての基本だと思えてきた 私の場合は。

 

今日は 少しひんやりしてきた でも今年は急いで長袖を着たりせずに 体に聞きながら 衣替えをしていこうと思っている。

どうなるのか楽しみだ。

 

今朝も 元気に目が覚めて 痛いところもなく こうやって 文章が出来ていることに感謝しています。いつも完璧な 宇宙に感謝です。ありがとうございます。