《参考》大阪の地名について
大阪は、初め石山本願寺の寺内町として発展し、1583年(天翔1年)には豊臣秀吉の城下町となり、豊臣氏滅亡後は幕府の直轄領となりました。
●「船場」
地域は、大阪城の西方から南西方向にかけての河川と人工の堀に囲まれた四角形の東西1km、南北2kmの地域です。東端が「東横堀川」、西端が「西横堀川」、南端が「長堀川」、北端が「土佐堀川」です。(ただし現在、「西横堀川」「長堀川」は埋め立て済みで、「東横堀川」は残っていますが、その上を阪神高速1号環状線南行きが走っています。埋め立てられた「西横堀川」の上には、阪神高速1号環状線北行きが走っています)本町通の北側を「北船場」、本町通の南側を「南船場」と呼ぶこともありますが、大阪の中心部そのものです。「船場」の地名の由来については、いくつかの説があります。(1)しばしば戦があった場所で、「戦場」と呼ばれた(2)大坂城の馬を洗った場所で、「洗馬」と呼ばれた(3)砂浜であったため「砂場(さば)」と呼ばれ、センバに転訛した(4)古代は船着き場であって、着船場の「着」を省いて「船場」となった
★「北浜」
「北浜」と言えば、東京の「兜町」と並んで「証券の街」「金融街」として知られています。「兜町」が「シマ」と呼ばれるのに対して、「北浜」は「ハマ」と呼ばれています。「北浜」の地名の由来は、「船場の北の浜」ということから来ています。
●「谷町」
「谷町」は大阪城のすぐ西側の地域で、現在の谷町1丁目から9丁目までをさします。「谷町」の地名の由来は、上町台地が西側へ落ち込む地形になっているためです。大手前の官庁街や法務局に近いことから司法書士事務所が多いほか、寺院も多いです。相撲の力士を応援するスポンサーのことを「タニマチ」と呼びますが、これは谷町6丁目の外科医の薄恕一(すすきじょいち)さんが、幕下力士のために病院内に土俵を設けるほどの相撲好きで、幕下力士を無料で治療したり、小遣いをあげたりしたことに由来するそうです。なお、「タニマチ」の語源となったと言われる医師や呉服商が、薄さんのほかにも谷町にはおられたようです。これは、かつて大相撲春場所で、多くの相撲部屋が谷町界隈に宿舎を構えたことと無縁ではなさそうです。
●「立売堀(いたちぼり)」
「立売堀」は、大阪城の西方、大阪市西区の地域です。東は北久宝寺・南久宝寺に接し、西は本田(ほんでん)、北西は江之子島・西本町、南は新町、北は阿波座に接した地域です。江戸時代から、南部に立売堀川、北西部に薩摩堀川、西端部に百間堀川が流れていましたが、昭和中期に埋め立てられました。江戸時代から材木の集散地として栄え、大正以降は金属や機械などの問屋街となっています。西郷輝彦さんが主演したテレビドラマ「どてらい男(やつ)」のモデルは事業家の山本猛夫さんですが、彼の創業した株式会社山善大阪本社はこの立売堀にあります。「立売堀」の地名の由来は、大坂冬の陣・夏の陣の時、伊達氏がこの付近に堀を作り、陣地を構えていたことから、「伊達堀(だてぼり)」と呼ばれていました。しかし、「伊達氏」のことをよく知らないか、漢字をよく読めない大阪の庶民が、「いたちぼり」と誤読したことから、こう呼ばれるようになったそうです。後に材木の「立ち売り」が許可されるようになったので、漢字だけ「立売」に改められたそうです。
《LE PONT DE CIEL》設計:大林組(小田島平吉、外観デザイン:平松英彦)
540-0031大阪市中央区北浜東6−9/06-6947-0888
大川の南側に面し、天神橋のすぐ南側に位置する鉄筋コンクリート造地上6階地下1階。1926年 (大正15年)、当初は★大林組の本店ビルとして建築された。設計に際しては社内コンペを実施し、★小田島平吉の設計によって、当時アメリカで流行していたスパニッシュ様式の案を採用。スクラッチタイルとテラコッタのレリーフが特徴。1972年 (昭和47年) に土佐堀通の向かい側に大阪大林ビル (現・北浜 NEXU BUILD)が建設されたため、ビルの機能は企業本社からテナントビルに変更された。1981年以降は改修時まで、料理学校の校舎として使用された。老朽化したビルを取り壊して新しいビルに建て替える議論も行われたが、記念的な建造物として保存されることになり、2007年 (平成19年) に耐震補強などの改修工事。耐震壁を既存窓の内側に設けるなど多くの工夫が凝らされた。地下1階から2階には★フレンチレストラン「ルポンドシエル」がある。かつて向かいの大阪大林ビルにあった店舗が移転したものであり、「ルポンドシエル」とは「天架ける橋」の意で天神橋に由来する。★3階には大林組の歴史を示す博物館4階から6階には引き続き料理学校が配置されている。 第18回BELCA賞ロングライフ部門表彰、大阪都市景観建築賞第29回特別賞をそれぞれ受賞し、生きた建築ミュージアム・大阪セレクションに選定された。
●この度、都合により「Dining & Bar さがん」 を 本年 3月 31日(木)をもって閉店する事といたしました。長らくのご愛顧を賜り、感謝申し上げます。なお、フレンチレストラン 「ルポンドシエル」は、引き続き営業してまいりますので今後とも変わらぬご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。
《大林組歴史館》
https://www.obayashi.co.jp/company/rekishi/
この歴史館は、平成13年(2001)10月、大林組創業110年を機に開設しました。当社は、明治25年(1892)1月、創業社主の大林芳五郎(おおばやしよしごろう)によってその歩みを開始しています。明治維新後の日本の近代化への方向が定まり、あらゆる近代産業が始まろうとする時代でした。以来、山も谷もあった足掛け三世紀にまたがる当社の歴史を再確認する場を設けることで、大林組社員がその潮流の先頭波にあることをあらためて自覚し、同時に社外の多くの皆さまに、当社の伝統に培われた仕事が、創業以来の「志(こころざし)」と「責任感」と「未来指向」を出自(しゅつじ)としていることを、知っていただく機会としたいと願うものです。 すべては、以前があって現在こそが未来を創るものであることを体感する場でありたいとも期待するものです。
・・・岡本太郎さんの作品は別格として、
【元永定正】(1922~2011)
三重県出身。絵本作家。前衛美術作家として国内外で高い評価を得ており、多数の受賞歴がある。造形作家の中辻悦子は妻。妻との共作として、2001年に全長30メートルに達する巨大アスレチック遊具型阪神淡路大震災復興モニュメント「ゆめ・きずな」を制作した。
【斎藤義重】(1904~2001)
青森県弘前市出身。現代美術家。多摩美術大学教授。絵画と彫刻の垣根を超えた表現を追求して作品を制作した。戦後以降の現代美術を代表する作品の数々を残し、「もの派」の作家らに大きな影響を与えた。
【山口長男】(1902~1983)
洋画家。日本の抽象絵画の先駆者である。武蔵野美術学園長を務めた。京城府(現・韓国ソウル)出身。1921年に19歳で日本に来るまでを京城ですごした。本郷洋画研究所で岡田三郎助に学び、20歳になった1922年、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。1927年、同校卒業と共に渡仏。フランスではパブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、それに当時渡仏中だった佐伯祐三にも刺激を受ける。また、彫刻家★オシップ・ザッキンのアトリエにも出入りし、立体的な造形をも習得に努めた。戦後、二科展の再結成にあたり会員として参加し、1962年まで二科展1953年、日本アブストラクト・アート・クラブの創立に参加し、1954年に会員としてニューヨークでのアメリカ抽象美術展に出品。同年、武蔵野美術大学教授となる[2]。1955年に第3回サンパウロ・ビエンナーレ、1956年に第28回ヴェネツィア・ビエンナーレの日本代表として出品、その後、グッゲンハイム賞美術展、チューリッヒ市立美術館の「現代日本の絵画展」など、国外での出品も広がる。1961年、芸術選奨文部大臣賞を受賞。1982年、三雲祥之助の後任として、3代目の武蔵野美術学園学園長に就任。典型的な作品は、黒系の地に黄土色または赤茶色系の大きな色面を配したもので、いわゆる「ハード・エッジ」の抽象絵画とは違い、温かみを感じさせる。
・・・ザッキンの作品も設置されていました。感激ですね。
・・・「お料理」は当然ですが、スタッフの方々のあたたかい「おもてなし」と、何といっても飾られている「アート」に眼を奪われました。
・・・始終来れるわけではありませんが何か特別な日に~また来ます。道を隔てて、夕暮れの流政之さんの彫刻もステキです。