・・・秋、「観楓会」が退蔵院で開催されるというので、期待に胸膨らませて訪問させていただきました。もちろん、中根金作さんのお庭を拝見することが第一目的です。
《妙心寺》
616-8035京都市右京区花園妙心寺町1/075-463-3121
開基(創立者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(無相大師)。寺紋は花園紋(妙心寺八つ藤)。日本にある臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺を妙心寺派で占める。近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭が建ち並び、一大寺院群を形成している。平安京範囲内で北西の12町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている。「妙心寺の算盤面(そろばんづら)」ともいう。
京都の禅寺は、五山十刹(ござんじっさつ)に代表される、室町幕府の庇護と統制下にあった一派と、それとは一線を画す在野の寺院とがあった。前者を「禅林」または「叢林(そうりん)」、後者を「林下(りんか)」といった。妙心寺は、大徳寺(龍寶山大德禪寺)とともに、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする「林下」の代表的寺院である。平安京の北西部を占める風光明媚な妙心寺の地には、花園上皇の花園御所(離宮萩原殿)があった。花園上皇は、建武2年(1335年)落飾して法皇となり、花園御所(離宮萩原殿)を禅寺に改めることを発願した。法皇の禅の上での師は大徳寺開山の宗峰妙超(大燈国師)であった。
《退蔵院》
616-8035京都府京都市右京区花園妙心寺町35/075-463-2855
臨済宗妙心寺派大本山妙心寺の塔頭である。初期水墨画の代表作である国宝★「瓢鮎図」を所蔵することで知られる。応永11年(1404)に越前国の豪族・波多野重通が妙心寺第三世・無因宗因を開山として千本通松原に創建する。後に日峰宗舜により妙心寺山内に移される。応仁の乱で妙心寺とともに焼失するが、後奈良天皇の帰依が深かった亀年禅愉により、慶長2年(1597)に中興される。
《瓢鮎図》
初期水墨画を代表する画僧・如拙作の絵画作品である。国宝に指定されている。室町幕府将軍足利義持の命により、ひょうたんでナマズを押さえるという禅の公案を描いたもので、1415年(応永22年)以前の作。画面上半には、大岳周崇の序と玉畹梵芳など31人の禅僧による画賛がある。画の上部にある大岳周崇の序によると、この作品は「大相公」が僧如拙に命じて、「座右之屏」に「新様」をもって描かせたものであることがわかる。「大相公」については、足利義持を指すと見るのが定説となっている。「新様」の意味については諸説あるが、「中国(南宋)伝来の新しい画法」という意味に解釈するのが一般的である。
現状では掛軸装で、上半分に序と賛、下半分に絵があるが、元は義持の「座右之屏」(ついたて)の表裏に絵と賛がそれぞれ表されていたものである。図は水流の中を泳ぐナマズ(題名の「鮎」はナマズの意)と、ヒョウタンを持ってそれを捕らえようとする一人の男を表す。男はヒョウタンをしっかり抱え持っているようには見えず、危なっかしい手つきである。左前景には数本の竹、遠景に山々を表す。主たるモチーフを画面の左下に集め、画面右方を広い空間とする構図法は「残山剰水」「辺角の景」と呼ばれるもので、南宋の画家馬遠が得意としたものである。また、人物の描法には同じ南宋の梁楷の「減筆体」の影響がうかがわれる。このように本作品は、南宋院体画の影響を強く受けたものであり、日本の初期水墨画を代表する人物である如拙の筆であることが確実な遺品として、日本絵画史上貴重な遺品である。制作年代については、賛者の活動年代から、応永20年(1413年)前後と考えられており、賛者の一人である太白真玄が応永22年(1415年)に没していることから、この年が制作年代の下限となる。
・・・さて、あなたなら「ひょうたんでナマズ」をどう説明しますか?私的には「アラジンの魔法のひょうたん」というところでしょうか。または「地震」と「ナマズ」の関係で解釈してもいいかな?