★『アガルタ』(Agharta)
ジャズ・トランペット奏者マイルス・デイヴィス、アルバム録音時は48歳で、ジャズ・コミュニティの多くを遠ざける一方、過激なエレクトリック・フュージョン・ミュージックで若いロック・オーディエンスを惹きつけていた。1975年2月1日に行った大阪公演の模様を収録した2枚組ライブ・アルバム。彼はさまざまなラインナップを試みた後、1973年に安定したライブ・バンドを結成し、その後2年間、健康悪化による身体的苦痛と薬物乱用による感情的不安定にもかかわらず精力的にツアーを行なっていた。デイヴィスは3週間の日本ツアー中、2月1日に大阪フェスティバルホールで2回コンサートを行ない、昼の公演が『アガルタ』、夜の公演が翌年に『パンゲア』としてリリースされた。『アガルタ』は1975年8月最初に日本で、CBS・ソニーにより、デイヴィスのさらなる健康悪化と疲労による一時的引退の直前にリリースされた。それはレコード・レーベルの提案で伝説の地下都市にちなんで名づけられた。デイヴィスは日本のアーティスト★横尾忠則に協力を求め、東洋の地下神話やアフロフューチャリズムからインスピレーションを得た先進文明の都市景観を描いたアートワークがデザインされた。コロムビア・レコードによる1976年の北米リリースには別のカバーが制作された。激しい議論を呼び起こしたレコード、『アガルタ』は、デイヴィスのジャズ・オーディエンスへのさらなる挑戦で、同時代の批評家によって広範に酷評された。評論家は音楽の不調和を見いだし、コージーのラウドなギター・サウンドやデイヴィスの希薄なトランペット演奏に不満を訴えた。それは後年、積極的に再評価され、若い世代のミュージシャンはバンドの耳障りな音楽やカタルシスを生む演奏、とりわけコージーのエフェクター満載のフリー・インプロヴィゼーションの影響を受けた。『アガルタ』は、重要なジャズ・ロック・レコード、劇的でダイナミックなグループ・パフォーマンス、そして1960年代後半から1970年代半ばにかけてのデイヴィスのエレクトリック期の頂点と考えられるようになった。
★『パンゲア』(Pangaea)
オリジナル盤発売当時は『パンゲアの刻印』という邦題がついていた。なお、本作に収録されているのは夜の部の公演で、同時期に発表されたライブ・アルバム『アガルタ』は、同日の昼の部の公演を収録。マイルス・デイヴィスの3度目の日本公演の1日を記録しているというだけでなく、マイルスが1970年代に行ったレコーディングのうち公式発表された音源としては最後のものである。1980年に『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』(発表は1981年)のレコーディングを開始するまで、マイルスは長い休養期間に入った。演奏はジャズ、ロック、ファンク、R&Bなど様々なサウンドが合体しており、その評価はマイルス・ファン(特に1970年代マイルス・ファン)にとっては非常に高い。マッコイ・タイナーのバンドで活動していたソニー・フォーチュン(サックス、フルート)等が帯同した。1970年代のマイルスのライブは1時間弱のメドレー演奏を2セットという形式で行なわれるのが常であった。本作においても「ターンアラウンドフレーズ」「ウィリー・ネルソン」「チューン・イン・5」「イフェ」「フォー・デイヴ」といった従来からのレパートリーを立て続けに演奏しており、2つのセット全体にそれぞれ便宜的に与えられた「ジンバブウェ」「ゴンドワナ」といったタイトルはいずれも楽曲名ではない。実質的には、マイルスの統制の下に行われた集団即興演奏と言える。マイルスのアルバムは、スタジオ盤・ライブ盤問わず、マイルスと付き合いの長いプロデューサーのテオ・マセロが編集を施すことが多いが、本作と『アガルタ』は全く編集されていない。それだけ如何にこのライブが凄まじいものだったかが理解できよう。尚、ジャケット、アートワークは★田島照久によるものである。
この頃から健康状態も悪化、1975年の大阪でのライヴ録音『アガルタ』『パンゲア』を最後に、以降は長い休息期間となる。1980年に活動再開。1981年に復帰作『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』制作。10月には新宿西口広場(現在の東京都庁)で来日公演を行った。この模様は、後日NHKテレビで放映され、ライヴ盤『ウィ・ウォント・マイルス』にはその一部が収録されている。以降、1983年、1985年、1987年、1988年、1990年と度々来日した。1986年、長年在籍したコロンビアからワーナー・ミュージックへ移籍。ジャズ以外のジャンルの作品にも多くゲスト参加した。1990年には東京ドームにて行われたジョン・レノン追悼コンサートに出演し、ビートルズの「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」をカバーした。さらにヒップホップのミュージシャンであるイージー・モー・ビーをゲストに迎えた新アルバムの制作を開始した直後の1991年9月28日、肺炎の為、カリフォルニア州のサンタモニカで死去。満65歳没。
【田島照久】Wikiより
1949年、福岡県に生まれる。多摩美術大学グラフィック・デザイン科卒業。大学卒業後、CBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)に入社し、ソニーレコード・デザイン室に勤務する。矢沢永吉やマイルス・デイヴィスのジャケット・デザインを担当。1980年にソニーを退社しフリーランスとなり、自身のデザイン・プロダクション「Thesedays」を設立。その後、浜田省吾や尾崎豊を始めとする数多くのアーティストのジャケット・デザインを担当。音楽関係以外でも、ポスターや広告、カレンダー、写真集、小説や文庫本の装丁など幅広い分野の仕事を手掛けている。アニメ分野でも数多くの作品のデザインを担当しており、『攻殻機動隊』シリーズや『機動警察パトレイバー』シリーズ、ガンダム関連の作品も手掛ける。コミックスでは井上雄彦の『バガボンド』全巻の装丁も担当。また、早い時期からコンピュータを使ったデジタル・デザイン、デジタル・フォトグラフィーにその表現分野を拡げ、1994年に世界初のCGによる恐竜写真集「ディノピクス」を発表、欧米でも出版される。近年は自身による小説も執筆している。浜田省吾とは1980年のアルバム『HOME BOUND』で仕事をして以来、ほぼすべての作品のデザインを担当しており、30年以上の付き合いとなる。1995年には浜田の写真集『ROAD OUT』を出版した他、2009年には浜田省吾を題材にした展覧会「浜田島」を開催している。
《NEWS》2020.5.26ディスカバーミュージックより
マイルス・デイヴィスを描いたドキュメンタリー映画『マイルス・デイヴィス クールの誕生』の日本劇場公開が決定
幾度となくジャズの歴史に革命をもたらし、ロックやヒップホップにも影響を及ぼしたトランペット奏者、マイルス・デイヴィス(Miles Davis)の素顔に迫るドキュメンタリー映画『マイルス・デイヴィス クールの誕生』 (原題:MILES DAVIS: BIRTH OF THE COOL / 監督:スタンリー・ネルソン)の日本劇場公開がマイルスの94回目の誕生日である5月26日に発表された。★2020年9月4日から、角川シネマ有楽町、YEBISU GARDEN CINEMA他、全国順次ロードショーされる。
・・・そして、マイルスの最後に紹介しておきたいのが、
《1958マイルス(1958 Miles)》
1958年のセッションを中心としたアルバム。特に1958年のセッションは『カインド・オブ・ブルー』参加メンバーによるスタジオセッションとなる。これらの楽曲は1958年当時レコーディングこそされたものの結果的にお蔵入りとなり、正式なアルバムに収録されることはなかった。その後10年以上が経過し、1979年にCBSソニーが発表した過去のお蔵入り音源を収録した編集盤『サークル・イン・ザ・ラウンド』や、日本CBSソニー企画編集のLP『マイルス・デイビス・クインテット&セクステット』(1973年)などでようやく陽の目を見ることとなったが、これらは1曲単位で断片的に収録されていたため、★1958年の一連のセッションの音源を網羅するには複数のアルバムを聴く必要があった。それを集約したのが日本編集の本作で、これまで様々なアルバムに散在していた楽曲を同時期のセッション単位で収録しているため、オムニバス作品でありながら一つの単独アルバムの趣を持った作品となっている。
本作のジャケットは日本人★池田満寿夫によりデザインされており、この時期にレコーディングされ発売された作品群とは異なる仕上がりとなっている。
・・・敬愛する池田満寿夫さん、特に初期の作品は今でも「ぞくぞく」させられます。