A Day in the Life | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・そもそも音楽への興味関心は「ビートルズ」(中学時代)からで、「ジャズ」は高校から大学時代。そういう流れの中で、

 

《ア・デイ・イン・ザ・ライフ》(A Day in the Life) Wikiより

ビートルズの楽曲で、1967年に発売されたアルバム★『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に収録された。名義上はレノン=マッカートニーとなっているが、曲の大部分は1967年1月中旬にジョン・レノンによって書かれており、中間部分のみポール・マッカートニーが書いた。アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』は、「架空のロックバンドによるライヴ・ショー」をコンセプトとしており、本作は前曲「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (リプライズ)」に続く同アルバムの最終収録曲であることから、アンコール曲に位置付けられている。サウンド面では、ジョン作曲の部分とポール作曲の部分をつなぐ、オーケストレーションが印象的である。また、アルバムにはクレジットされていないが、LPではこの曲の終了後、しばらく間をおいたレコード盤のいちばん内側の溝に、超高音域のノイズと笑い声や意味不明なおしゃべりを逆回転させた曲 (?) が収録されている。ベスト版ではカットされている。このノイズとおしゃべりの部分に本来名前は付けられていないが『レアリティーズ Vol.2』のリリースに際し便宜的に「サージェント・ペッパー・インナー・グルーヴ」というタイトルが付けられた。以来この部分は「サージェント・ペパー・インナー・グルーヴ」と呼ばれるようになっている。

 

 

・・・「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」このLPジャケットは、私のコレクションの中で最高位です。

 

《NEWS》2019.9.25Rolling Stone Japanより

『サージェント・ペパーズ』を撮った伝説のカメラマン★マイケル・クーパーの写真集が復刻

多くのアーティストと対峙しながら刺激的な作品を残した彼は、特にザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズと親交が深く、1967年に★『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のジャケットを撮影し、その後『サタニック・マジェスティーズ』も撮影したことはよく知られている。また、ミュージシャンだけでなく、アンディ・ウォーホルなどの芸術家から、詩人として知られるアレン・ギンズバーグまで、数多くのアーティストと交流し、”奇跡の1枚”を世に送り出し続けた。マイケル・クーパーはその後、1973年、32歳の若さでこの世を去ってしまうが、数々の傑作は、当時の輝きのまま、今から45年前に発行された写真集『ブラインド&シャッターズ』に記録された。また、最初のコピーが制作された1989年には、50,000もの著名人よる直筆サインが書き加えられて、出版を祝福した。それから30年を記念した2019年、英国ジェネシス・パブリケイションズより最終版600部が全世界限定で発売される。最終版には、今は亡きハリー・ニルソン、ボ・ディドリーや、ジョン・メイオール、スティーヴ・ウインウッド、エリック・クラプトン等の貴重な直筆サインも書かれている。国内でも僅少数が輸入され、SHINKO MUSIC RECORDS SHOPにて予約・購入の申し込みを受け付ける。60~70年代初期のロックシーンを撮影し続けた伝説のカメラマン、マイケル・クーパーの写真集『ブラインド&シャッターズ』が豪華仕様で復刻・限定発売される。

 

 

【マイケル・クーパー(Michael Cooper)】

撮影輸入豪華写真集『ブラインド&シャッターズ』

予約・販売価格:120,000円(税抜)+税/サイズ260mm x 370mm、ページ数368ページ

豪華革装丁、30周年記念スリップケース(外箱)付/全世界600部完全限定

 

・・・むむむ高い。「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」にもどろう。

 

《参考》ビートルズの名曲「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」知られざる10の真実/Rolling Stone Japanより

https://rollingstonejapan.com/articles/detail/27784/1/1/1

「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」がスタジオでレコーディングされたのは1967年1月19日。この曲のインスピレーションの中核、特にジョン・レノンが歌う”車の中で正気を失った(blew his mind out in a car)”男というオープニングは、1966年12月18日に交通事故で亡くなったタラ・ブラウンの死と関係している。21歳のブラウンはギネス家の跡継ぎで、ビートルズの友人だった。

」。「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」の肝は傍観するような感覚だ。そしてこのオープニングのテーマは、新しい世界をじっと見入ることだった。レノンとマッカートニーが、それぞれリバプールでの少年時代を振り返っている「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」と「ペニー・レイン」のレコーディングが終了したあと、ビートルズは後に英国で最も有名な港町となるリバプールでの生い立ちを、アルバムで具現化することを検討していた。彼らの気分は少年時代だった。この曲のタイトルは、最初のレコーディングセッションまでは「イン・ザ・ライフ・オブ」だった。より成熟したものにするため、少年時代をコンセプトにするという案は却下されることになった。「4人のマッシュルームカットの少年たち、というアプローチを、僕らは本当に嫌っていた。僕らは子供じゃなかった。大人だった」とマッカートニー。それでも、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に収録されている他の多くの曲同様、無邪気な驚きはこの曲の中にも保たれている。「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」24小節、つまり1日の時間数と同じだ。

 

・・・なんと今更ながら奥深い。そして、

 

 

《Wes Montgomery 『A Day in the Life』》 (1967)

ウェス・モンゴメリー(Wes Montgomery)がギター、ハービー・ハンコック(Herbie Hancock)がピアノ、ロン・カーター(Ron Carter)がベース、グラディ・テイト(Grady Tate)がドラムス、レイ・バレット(Ray Barretto)がパーカッション、オーケストラの指揮とアレンジが、ドン・セベスキー(Don Sebesky)、etc。プロデューサーは★クリード・テイラー(Creed Taylor)、A&M/CTIの記念すべき第1号アルバム。ドン・セベスキーをアレンジャーに迎えて、ポップなジャズ・サウンドを聴かせてくれる。タイトル曲や“エリナー・リグビー”のビートルズ・ナンバーが最高の聴きもの。ウェス・モンゴメリーは、このアルバムの発表(1967年)の翌年(1968年)には、謎の死を遂げている。★45歳という、あまりに早すぎる死です。

 

【クリード・テイラー(Creed Taylor)】

http://bjbear71.com/Ogerman/creed.html

ABCパラマウント・レコードのプロデューサーであったテイラーは、1960年に同社内にジャズ専門レーベルインパルス!レコードを発足。しかし翌年の1961年にヴァーヴ・レコードに移籍する。1967年にA&Mレコード内にCTIレコード(Creed Taylor Issue)を発足、1970年に独立し、正式名称をCreed Taylor Incorporatedに変更。1974年にはCTIの傍系レーベルとしてソウル・ジャズ、黒人ミュージシャンを中心としたKUDU(クドゥ)をスタート。テイラーはジャズの大衆化を図り、クロスオーバー(フュージョンの前身)のブームを作った。また、アントニオ・カルロス・ジョビンやジョアン・ジルベルト等ブラジルのミュージシャンを起用し、ボサノヴァをアメリカで普及させた。

 

・・・そして衝撃をうけた「スイガラ」のジャケ写真は、

 

【ピート・ターナー(Pete Turner)】

http://www.peteturner.com/index.html

当時世界的に著名な米国人写真家であり、ジャズアルバム制作へ数多く関わり J.ホールや P.デスモンド、A.C.ジョビン等各氏のフォトグラファー担当している。

 

 

《参考》ブログ「空間見聞」より

https://nyff.blog.fc2.com/blog-entry-147.html

ウェスはミュージシャンの兄弟(Monk/Buddy)影響で、ギターへ触れ始めたのはローティーンの頃、そして19歳頃からプロ・ギタリストめざすようになったのだが、遅いスタートだった事から譜面読み込むスキル備わっておらず、★常にコンプレックス抱えていた旨、周知の伝説でもある。しかしながら、その負荷克服する為にチャーリー・クリスチャンを師匠(アイドル)へ据えつつ、彼のソロ・フレーズやノートなどレコードから徹底的に聴き込み、★繰り返し模倣する事で演奏力へ磨きを掛け、実力付けていく。したがって、当初はピック使用するシングル・トーンだった。そして家族養うため昼間は工場労働者、夕刻以降地元クラブでの演奏と云う、寝る間も惜しむ修行時代送り、試行錯誤の末独自に導き出した★親指オクターヴ奏法は、そんな血の滲む努力が結晶した賜物。表題タイトルもこの奏法と深く関係しており、日夜トレーニングから養った彼独特の弾き方が、『 ハート伝説』を生む呼び水となる。親指ピッキング奏法、他指をピックガードの下端へ添えつつ、激しくダウン&アップストローク繰り返す、従って四本指がボディ頻繁に叩き・擦り・傷つける、やがて酷使に絶えかね塗装剥離し、生地プライウッド削られ開穴してしまう。したがって、該当箇所へボディ保護の為、ゴルペ版がピックガード同様必要だったのだ、そして防護マテリアル取付時、機能だけではなく装飾も兼ね、シェルマークをシンボリックな「ハート型 」フォルムにして、象嵌したと云う。

 

・・・続いてのジャズはマイケル・クーパーつながりで、アンディ・ウォーホルのジャケデザインです。

 

 

【アンディ・ウォーホル(Andy Warhol)】(1928~1987)

1950年代、大学卒業後はニューヨークへ移り『ヴォーグ』や『ハーパース・バザー』など雑誌の広告やイラストで知られた。1952年には新聞広告美術の部門で「アート・ディレクターズ・クラブ賞」を受賞し、商業デザイナー・イラストレーターとして成功するが、同時に★注文主の要望に応えイラストの修正に追われ、私生活では対人関係の痛手を受けるなど★苦悩の時期でもあった。彼は後に、ただ正確に映すテレビ映像のように内面を捨て表層を追うことに徹する道を選ぶこととなる。この間に、線画にのせたインクを紙に転写する「ブロッテド・ライン (blotted line)」という大量印刷に向いた手法を発明する。1960年 (32歳)、彼は★イラストレーションの世界を捨て、ファインアートの世界へ移る。『バットマン』、『ディック・トレイシー』、『スーパーマン』など、コミックをモチーフに一連の作品を制作するが、契約していたレオ・キャステリ・ギャラリーで、同様にアメリカン・コミックをモチーフに一世を風靡したロイ・リキテンスタインのポップイラストレーション作品に触れて以降、★この主題からは手を引いてしまった。当時アメリカは目覚ましい経済発展のさなかにあった。1961年 (33歳)、身近にあったキャンベル・スープの缶やドル紙幣をモチーフにした作品を描く。★ポップアートの誕生である。1962年 (34歳)、はシルクスクリーンプリントを用いて作品を量産するようになる。モチーフにも大衆的で話題に富んだものを選んでいた。マリリン・モンローの突然の死にあたって、彼はすぐさま映画『ナイアガラ』のスチル写真からモンローの胸から上の肖像を切り出し、以後これを色違いにして大量生産しつづけた。ジェット機事故、自動車事故、災害、惨事などの新聞を騒がせる報道写真も使用した。

 

・・・見切りが早いというか話題や流行に敏感、そういう意味で本当にポップなアーティストだったわけです。