豊臣秀吉 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《NEWS》2020.5.21毎日新聞より

国内最大の「秀吉像」江戸時代の木造/大阪★大宮神社で見つかる

大阪市教委は21日、江戸時代に作られた国内最大の「木造豊臣秀吉坐像」が同市旭区の大宮神社で見つかったと発表した。秀吉は1598年の没後、「豊国大明神」として神格化されたが、徳川幕府下では公に信仰できなかったとされ、その木像は全国でも二十数例しか確認されていない。発見された木像は寄せ木造りで頭部の冠は欠けているが、像高は81・9センチと最大。文化財保護課は「徳川家康が天下人となり、秀吉信仰がはばかられていた時代でも大阪でひそかに祭られていたことを示す文献以外で示す初めての例で、極めて貴重な資料だ。」としている。大宮神社は大坂城の鬼門守護として信仰されていたとされ、秀吉像があると言い伝えが残っていたが、2019年1月、社殿改修計画を機に市の調査で初めて存在が確認された。秀吉像は大宮神社の本殿とは別の社殿「高良社」に祭られていた。社殿の扉はくぎ止めされ、像の存在は長く秘密にされていた。束帯を着て両足の裏を合わせて座る姿で、布製の冠をかぶっていたとみられる。頭上にあったはずの冠はなくなっており、家康が外すよう命じたと考えられるという。社殿の扉はくぎ止めされ、ひそかにまつられていたという。額に大きな横しわがあり、眉毛は垂れ下がるなど、高齢の秀吉を等身大で表現。制作時期は不明だが、神社が秀吉像を開帳したとみられる1823年以前にさかのぼると考えられている。大宮神社の広瀬哲宮司(50)は「扉を開けたときにちょうど顔が私の顔と正面と面と向かうような形になりまして、大変驚きびっくりした。秀吉の像が(神社に)あると昔から言い伝えられていた」と述べた。専門家は、重要文化財級の価値があるとしていて、大阪市は今後、一般公開も検討するということです。

 

《大宮神社》

535-0002大阪市旭区大宮3-1-37/06-6951-2196

https://omiyajinja-osaka.sakura.ne.jp/

 

・・・このニュースを見て、ひょっとしたらと調べ直したのです。やっぱり、行ったことがある神社でした。それは★「大阪工業大学」訪問(2018.9.18)途中に、偶然立ち寄ったのでした。その時の画像を再点検してみたいと思います。

 

 

 

★由緒(御神像)

https://omiyajinja-osaka.sakura.ne.jp/gosinzou.html

この度、大阪市教育委員会事務局総務部文化財保護課様より当社の豊国大明神像について報道発表がなされました。

●ご神像の経緯について

当社の境内神社である高良社に鎮まりますご神像が豊臣秀吉公の像であると、先代より言い伝えられておりましたが、ご神体のことである故に、これまで公にせずにまいりました。この度の改修工事に際し、保存修理の必要から調査をすることになり、今回の発表となりました。現在工事中の高良社は秋頃に竣工の予定です。現在神様は新しいご神体にお遷りいただき、ご本殿内に仮殿を設けお祀りしておりますので、ご本殿と合わせてお詣りください。当初、文化財保護課様との協議の中で、公開事業を計画しておりましたが、★残念ながら昨今のコロナウイルス感染症の情勢により、現在のところ公開の予定はありません。報道発表は当社社務所にて行いましたが、現在ご神像は別の場所にお移ししています。社務所においでいただいてもご覧になれませんので、何卒ご了承ください。ご神像は今後、文化財保護課様と協議しながら保存修理を行う予定です。

今回の発表の詳細は、8月に大阪市史編纂所より発刊予定の★「大阪の歴史90」に京都大学大学院 元大阪市教育委員会文化財保護課学芸員の川北奈美様による「大阪・大宮神社の豊国大明神像」の論考が掲載されます。是非ご一読ください。今後、公開事業等ご神像に関する事は当ホームページや境内掲示板にてお知らせしますので、よろしくお願いします。

https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?page_id=871

 

・・・「大阪の歴史90」が楽しみです。

 

 

報道発表資料/全国最大級の豊臣秀吉像(豊国大明神像)が大阪市内で新たに発見されました/2020年5月21日

https://www.city.osaka.lg.jp/hodoshiryo/kyoiku/0000501862.html

大阪市教育委員会は、旭区大宮3丁目に所在する大宮神社で、新たに木造豊臣秀吉坐像を発見しました。秀吉は没後「豊国大明神」の神号を贈られるとともに、京都に豊国神社が建立され、神としてまつられました。その姿をあらわした木像は、秀吉の没後から江戸時代にかけて造られてまつられましたが、現在知られているのは全国で20数例と限られています。新発見された秀吉像は、頭部の冠を欠失した状態で像高が80センチメートルを超えるという、等身の大きな像です。銅像など近現代の作例を別にすれば、最大級の彫像と考えられます。全国的にも非常に貴重な発見です。(注)この像は、一般公開されていません。

●発見の経緯/大宮神社は、大宮八幡宮とも称される旭区大宮に社地を構える神社です。鎌倉時代の創建で、江戸時代には大坂城の鬼門守護の神社として信仰されていた、と伝えています。秀吉像は、境内の摂社のひとつである高良社(こうらしゃ)の社殿の中にまつられていました。社殿の扉には釘止めがされ、長く秘されてまつられていたということです。令和元年に社殿の改修工事が計画され、像を移動する必要が生じました。それに伴い調査する機会をいただくことができたため、この発見に至りました。

●大宮神社の秀吉像/大宮神社の秀吉像は、像高が現状で81.9センチメートルをはかる等身大の坐像です。額の三条の皺(しわ)、長くこめかみに及ぶ眉、彫出された三日月形の目などとともに、特徴のある容貌です。膝前に平緒(ひらお)をあらわし、両足裏を正面で打ち合わせる束帯(そくたい)姿の像ですが、頭上の冠は失われています。右手には笏(しゃく)などの持物をとっていたと考えられます。彩色はほとんど剥落しており、現状では木の彫刻面が露出した状態です。各部材の接合が緩んでおり、冠など失われた部材もわずかにありますが、寄木造の像の部材はほとんどが残っており、その全容を知ることができます。像に銘記はありませんが、製作年代は江戸時代と考えられ、17世紀中頃にさかのぼる可能性もあります。

●文政6年(1823年)の開帳/文政6年(1823年)に大宮神社で開帳が行われており、この秀吉像が公開されたと考えられます。この開帳が行われた18世紀末から19世紀初めにかけては、寛政9年(1797年)に秀吉の一代記である『絵本太閤記(えほんたいこうき)』が出版され、それを翻案した浄瑠璃が大坂・京都で頻繁に上演されるなど、秀吉ブームが巻き起こっていました。秀吉とゆかりの深い、京都や長浜で、秀吉をまつる豊国神社の再興の動きが盛り上がったのもこの時代です。大宮神社の開帳も、このような秀吉ブームに連なるものではないかと考えられます。

●秀吉の木像/秀吉が神格化した姿をあらわした豊国大明神像の作例としては、画像が多く残されています。秀吉の没後まもない桃山時代から江戸時代初めの作例だけで、30を超えるといわれています。一方で、木像は知られている作例は少なく、全国で20数例が知られるのみです。これらの木像は、像高が80センチメートル程度の大きな像から、10センチメートル程度の小さな像までさまざまです。その中では京都市の西方寺像が最も大きく、冠を含めた像高が81.0センチメートルです。これに対して大宮神社像は、冠を欠失した状態での像高が81.9センチメートルであり、西方寺像よりもひとまわり大きい等身大の像で、近現代の銅像などをのぞけば、全国で最大の木像となります。

●大阪市域の仏像・神像/大阪市域は度重なる火災に見舞われていますが、近年になって貴重な仏像・神像が数多く残っていることがわかってきました。これらのうち、すでに重要文化財となっている像が11点、大阪府指定文化財となっている像が9点、市指定文化財となっている像が47点あります。このうち神像は大阪市指定の2点で、他は仏像です。この他にもたくさんの像が伝来しています。大阪市教育委員会ではそれらの文化財的な価値を把握する調査をすすめるとともに、保存と啓発をすすめています。

※用語解説

・豊国神社(とよくにじんじゃ)慶長3年(1598年)に没した秀吉を豊国大明神としてまつるために、秀吉が発願した大仏を安置するために建立された京都市東山区に寺地を構える寺院である方広寺(ほうこうじ)の隣地に建立された神社。秀吉ゆかりの地などにも分祀された。大坂の陣後に徳川氏によって破却され、以降、江戸時代は公には秀吉をまつりにくい状態にあった。明治元年(1868年)に再建されたのが現在の豊国神社である。

・高良社(こうらしゃ)八幡神の伴神のひとつとされる高良玉垂命(こうらたまだれのみこと)をまつる。豊国大明神像とは直接の関係はない。文政の開帳後は、秀吉像をこの社に秘してまつっていたと考えられる。

・絵本太閤記(えほんたいこうき)寛政9年(1797年)に出版された秀吉の一代記を記した読本(よみほん)で、文化元年(1804年)には幕府により発禁とされたが、翻案された浄瑠璃や歌舞伎は大ヒットし、大坂・京都で上演され続けた。

 

 

 

・・・写真(上)ありました。報道発表の写真(下)と比べましたら、間違いないと思います。ここに太閤さんが祀られていたのかと思うと、感慨深いですね。

 

 

・・・目的地までの道中、無駄はないなあと今さらながら納得しています。