・・・世界遺産登録後、久しぶりの「堺市博物館」です。
《堺市博物館》
590-0802堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁大仙公園内/072-245-6201
http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/hakubutsukan/
堺市博物館は、市制90周年記念事業として昭和55(1980)年に開館しました。生涯学習と市民文化の向上のため、堺市の歴史、美術、考古、民俗に関する博物館として、多くの資料を収集、保存、展示しています。古代史のロマンを秘めた百舌鳥古墳群のほぼ中心にある大仙公園の広大で緑豊かな中に、博物館、堺市茶室、中央図書館、自転車博物館、日本庭園、都市緑化センターなどが整備されています。楽しく有意義なひとときを、博物館と大仙公園でおすごしください。令和元年6月1日、昭和55年の開館以来300万人目となるお客様をお迎えいたしました。
★特別展「百舌鳥古墳群ー巨大墓の時代ー」
令和元年7月6日(土)~9月23日(月)
https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/hakubutsukan/kikaku_tokubetsu/mozu-kofungun.html
「古墳時代」は、日本の歴史の中でも、大きな墓(古墳)の築造に莫大なエネルギーを費やした特異な時代といえます。国内に様々な古墳・古墳群が数多くあるなかで、堺市内に広がる百舌鳥古墳群は日本最大規模の仁徳天皇陵古墳を含み、古墳時代には技術発信の面からも中心的な場所であったという特徴を持っています。当展では、各地に築かれた古墳群との比較から、百舌鳥古墳群の特質について考えます。また、日本の古代を考えるうえで欠かせない「古墳」について、各地の古墳との比較からみえてくるそれぞれの地元の古墳の面白さとともに世界文化遺産としての価値も紹介します。
●百舌鳥古墳群の時代:古墳および古墳時代の基本的な事項を紹介
[仁徳天皇陵古墳模型/二重口縁壺形埴輪(箸墓古墳・宮内庁)など]
●百舌鳥古墳群の築造:古墳築造時に使われたと考えられる道具や築造方法の紹介
[木製鋤(ニサンザイ古墳・堺市文化財課)/円筒埴輪(赤山古墳・堺市文化財課)/甲冑(黒姫山古墳・堺市文化財課)など]
●百舌鳥古墳群を造った人々:古墳築造を支えた技術や当時の暮らしを紹介
[鉄地金銅張製品(城ノ山古墳・同志社大学歴史資料館)/須恵器(陶邑窯跡群)など]
●百舌鳥古墳群と各地の古墳群:特徴的な古墳群をピックアップして紹介
奈良県 馬見古墳群/大阪府 古市古墳群、百舌鳥古墳群、三島古墳群/宮崎県 西都原古墳群/石川県 能美古墳群
●残された百舌鳥古墳群
《百舌鳥梅町窯跡》591-8032堺市北区百舌鳥梅町1丁
https://www.city.sakai.lg.jp/kita/miryoku/bunkazai.html
堺市博物館のマスコット、百舌鳥梅町窯跡出土の犬型埴輪★「梅ちゃん」をモチーフにしたパズルがミュージアムグッズに初登場!インテリアとして眺めても楽しいパズルです。
御廟山古墳の南東、百舌鳥川左岸にある窯跡です。段丘斜面を掘り込んで築いた半地下式のあな窯で、天井や焚口は残っていませんでしたが、その規模は現状で長さ5m、幅2.3mあり、復元全長8m以上と推定されます。昭和47年(1972)に発掘調査が行われています。発掘調査では、女性の頭部、イノシシなどの人物・動物埴輪や家形埴輪・円筒埴輪とともに、高杯や壷などの須恵器及び土師器が出土しています。女性の頭部の埴輪は大山古墳出土の埴輪とよく似ており、大山古墳の埴輪がここで焼かれた可能性もあります。5世紀中頃の築造と考えられ、いまのところ百舌鳥古墳群内で発見されている★唯一の埴輪窯です。
《カトンボ山古墳》堺市北区百舌鳥赤畑町5丁
https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/dkofun/database/katonboyama.html
御廟山古墳の後円部東側にあった円墳で、同墳の陪塚と考えられます。土砂採集による破壊の始まった昭和24年(1949年)に発掘調査が行われました。その時には、すでに破壊がかなり進んでいましたが、墳丘は2段築成で、径約50m、高さ約6m程の規模であったと考えられます。葺石と埴輪列の存在が確認されています。出土遺物も多くが散逸していましたが、調査の際に大半が収集され、また調査後にも再発見されたことで副葬品の概略が明らかになっています。副葬品は銅鏡・鉄製品・滑石製の玉類や実用でない模造品などで、鏡には位至三公鏡と無文鏡の2面があり、鉄製品には刀や剣・鉾・鉄鏃などの武器類と刀子・斧などの工具類、蜘蛛手形の用途不明の鉄器があります。また、滑石製の模造品類は★子持勾玉5、勾玉729、臼玉約20000、双孔円板1、剣形1、斧形6、鎌形13、刀子形369の多数を数えます。
★市民の手で守られた「いたすけ古墳」/60年前 宮川徏さんらが保存運動
http://sankyuu.sakura.ne.jp/topics/2017topics/hei1miyagawa.html
世界遺産の国内候補に決まった百舌鳥・古市古墳群にあって、1955(昭和30)年に破壊の危機にあったイタスケ古墳は、全国初の文化財を守る運動によって保存された。保存運動の推進に関わった歯科医★宮川徏(すすむ)さんが、「いたすけ古墳を守った男」として読売新聞(8月8日付)で紹介された。戦後の復興に伴う宅地造成などで、百舌鳥古墳群では戦後10年の間に、15を超える古墳が満足な研究もされずに姿を消した。堺中学在学中の終戦直後から、同窓の4期先輩である森浩一さん(中47期)らによる百舌鳥古墳群の調査に加わった宮川さんは、古墳が取り壊される際の緊急発掘にも数多く参加、古墳が壊されていくのを目の当たりにしていた。55年8月、私有地だったイタスケ古墳が開発業者に売却され、翌月には宅地造成工事用の橋が濠に架けられた。天皇陵などの陵墓を除くと、周濠を巡らせた完全な姿が残る唯一の古墳だったことから、森さん(当時泉大津高教諭)や宮川さん(当時大阪歯科大在学)など考古学研究者の呼びかけで、「堺市イタスケ古墳を護る会」が結成された。取り壊しが迫る中、古墳保護の必要性を各方面へ訴え、署名活動や保存に向けた買い取りの募金も行われた。新聞などで大きく取り上げられたこともあり、地域の運動は全国に広がっていった=下は1955年10月29日朝日新聞。その結果、堺市が開発会社から古墳と橋の買い取りを決定(後に国と折半)、11月の史跡仮指定を経て、翌年5月には正式に国の史跡として保存が決定した。イタスケ古墳保存運動は、その後の文化財を保存する市民運動の原点として語り継がれている。
《参考》「文化財保存70年の歴史 明日への文化遺産」刊:新泉社2017
I 文化財保存の現状と課題
II 保存運動の歴史と展望
1文化財保護法の成立と月の輪古墳/2戦後復興と★イタスケ古墳/3高度経済成長と平城宮跡/4住民運動の高揚と池上曽根遺跡/5文化財訴訟と伊場遺跡/6高速交通網の整備と裏山遺跡/7新しい市民運動と田和山遺跡/8文化的景観と世界遺産/9大震災後の文化財救援活動と災害遺構の保存/10戦後70年と戦争遺跡
〈コラム〉登呂遺跡、岩宿遺跡、南堀貝塚、綾羅木郷遺跡、田能遺跡、加曽利貝塚、摂津加茂遺跡、多摩ニュータウン遺跡群、難波宮跡、青木遺跡、塚原古墳群、三ツ寺I遺跡、吉野ヶ里遺跡群、鷲城・祗園城跡、鞆の浦、平泉柳之御所遺跡、神戸港震災メモリアルパーク、木籠メモリアルパーク、原爆ドーム、首里城
III 文化財保存全国協議会の歩み
1 文化財保存全国協議会の結成/2 文化財保存全国協議会の活動記録
《NEWS》2018.2.14朝日新聞デジタルより
大阪)タヌキがすむ「いたすけ古墳」で樹木伐採スタート
2019年の世界文化遺産登録をめざす百舌鳥古墳群の前方後円墳「いたすけ古墳」(堺市)で13日、大きくなりすぎて墳丘を傷つける可能性のある樹木の伐採が始まった。登録のためには古墳の適切な管理が必要で、堺市が約150万円かけて後円部の竹など約50本を伐採。濠(ほり)にはえた葦(あし)も取り除く。いたすけ古墳は市が管理し、立ち入りを禁じている。この日は作業員がゴムボートで濠を渡り、墳丘の裾から濠に向かって繁茂し、墳丘が崩れる原因になる竹などをチェーンソーで1本ずつ伐採した。ふんなどで鳥が運んだものが育ったとみられ、竹は20メートル近くあるものも。市は墳丘の保護のため18年度以降も伐採を続ける予定だ。一方、古墳には20年以上前からタヌキの家族がすみ、古墳にかかる朽ちた橋に出没。タヌキ目当ての観光客の姿も。古墳の前に住む男性(78)は「樹木の管理は必要だがタヌキがすむ周りの木は残して」。近くの主婦も★「古墳とタヌキが共存できるよう工夫してほしい」と話している。
・・・タヌキを見に行くのもいいけれど、近隣住民に迷惑をかけないように!!!