風の王国(10)灌漑 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・古墳は「灌漑」のためだったという説もあるので、いろいろ調べてみました。

 

《樋の谷古墳》宮内庁丙号-大仙町

https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/hakubutsukan/kofun.html

仁徳天皇陵古墳の三重濠の西側面のほぼ中央の濠が膨れた部分にある径47メートル、高さ2.8メートルの不整形な古墳です。古墳は濠を浚渫した時の土を盛ったものとも言われ、古墳かどうかは疑問視する意見もあります。

★樋の谷水路

https://www.city.sakai.lg.jp/kurashi/doro/doboku/kasensuiro/suikankyo/kankyosaiseiplan.html

 

 

《「仁徳さん」が守る水》NPO法人堺観光ボランティア協会理事長・川上浩さん

http://toursakai.jp/zakki/2015/10/30_1924.html

重の堀の★水位は同じじゃない。枯れないように、溢れないように、三つの堀で水位を調整する仕組みがある。この三重の堀は、内側から、「第一濠(ぼり)」「第二濠(ぼり)」「第三濠(ぼり)」と名付けられています。

●第一濠/御山内(墳墓)を築成するために砂を掘り出した跡。掘り出された土は板で作られた枠の中に盛り、一層ずつ杵つきで突き固められたもの。版築といわれる技法で、厚さ10cm×20cm×30cm程度の大きさ。中国の竜山文化から今に至る。竜山文化:中国新石器時代における二文化の新しい時代(紀元前4~5世紀ごろ)

●第二濠/御山内(墳墓)を築成するために砂を掘り出した後も工事は続けられ、工事中に雨水が溜まる事は避けられず、第二濠(堀)を作り、雨水を排出した。

●第三濠/明治32~35年に亘る大工事で三重にした。本来、三重目は全周してなくて、南側前方部側のみの"コ"の字型と推定される。第三濠には9ヶ所に堰が設けられ、その堰と堰の間は貯水の役目を果たし濠の水位を調整する役目を持つ。濠と云うよりもため池。貯水の目安は、毎日、職員の方が天気予報を確認し、勘と経験で調整している。つまり、第一濠は古墳を作るための土砂を掘った跡。第二濠は工事中に第一濠にたまる雨水を排出するために作ったもの。第三濠が全周の形になったのは明治になってからで、機能は堀というよりはため池。二つの取水口から入れた水を九つの堰で調整しながら、細かく水位を調整していきます。第一の取水口である北側の導水路から第三濠の西側に流れた水は、堀の機能によって、そのまま前方部へ流されるか、余剰な分は西側にある★「樋谷余水吐」から外に逃がされるようになっています。また西側に第三濠と第二濠を繋ぐ余水吐があり、第三濠から溢れた水は第二濠に流れるようになっています。第二濠の水位はここで調整されます。第二濠と第一濠を繋ぐ通水管は、西側の中央あたりにあります。第一濠と第二濠の水位は同じになります。

 

★「灌漑用樋門跡」

現在の3濠が古墳時代より存在していた確証はありません。

1688~1704年 (元禄期)の新田開発により3重濠の大半は農地化したと見られる。

1728年の絵図では周堤の痕跡と南西側にL字形を残した長池の存在が確認できる。

1872~88年来日の英William Gowland、

1886~88年来日の米Romyn Hitchcockは明治期の古墳研究を行い2周濠と明記。

1896年改めて3濠開削、宅地化の進む昭和40年頃まで灌漑用水として利用されていました。

 

 

《参考》「創設時の狭山池」/文:湯川清光(石川県農業短期大学)

/1984農業土木学会誌・第52巻・第11号

http://www.ishikawa-pu.ac.jp/noutan/

昭和初年時の潅漑範囲は、西除川を中心として、東は除川、北は大和川、西は★大山古墳群に接するところまで、東西8km、南北9kmにわたっている。そして、この地域中央よりやや北を★「感玖大溝」の推定路線が東西に横断している。この感玖大溝は★仁徳陵建設用の運河をかねて5世 紀始めに開削されたので狭山池の方がこれよりやや早い。したがって、池の当初の潅漑範囲は地形的にみて現況に近かったものと思われる。しかし、大溝の完成によって、これより下流部への用水路は分断される。そして新たに大溝からの給水組織ができたに違いない。すなわち、5世 紀に入って狭山池は大溝より上位部の水田の潅漑を受持ったことになる。

 

○応神天皇

【古事記】亦作劔池。亦新羅人参渡來。是以建内宿祢命引率、爲渡之堤池而、作百濟池。(また、劔池を作りき。また新羅人参渡り来つ。ここをもちて建内の宿祢の命引き率て、堤池に役ちて百済池を作りき。)

【日本書紀】応神天皇七年・九月。高麗人。百濟人。任那人。新羅人。並來朝。時命武内宿禰。領諸韓人等作池。因以名池號韓人池。(高麗人、百済人、任那人、新羅人、並びに来朝しけり。時に武内宿禰に命(みことのり)して諸の韓人等を領(ひき)いて池を作らしむ。よりて名づけて韓人池と号す。

○仁徳天皇

【古事記】又役秦人作茨田堤及茨田三宅、又作丸邇池、依網池、又堀難波之堀江而通海、又堀小椅江、又定墨江之津。(また秦人を役ちて茨田堤、また茨田三宅を作り、また丸邇池、依網池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通はし、また小椅江を掘り、また墨江の津を定めたまひき。)

【日本書紀】

○仁徳天皇十一年・冬十月。掘宮北之郊原、引南水以入西海、因以號其水曰堀江。又將防北河之澇、以築茨田堤。(宮北の郊原(のはら)を掘りて、南の水を引きてもって西の海に入る。よりてもってその水を号して堀江という。また、まさに北の河の澇を防がんとしもって茨田堤を築く。)

○仁徳天皇十二年・冬十月。掘大溝於山背栗隈縣以潤田。是以其百姓毎年豐之。(大溝を山背の栗隈県に掘りて、もって田を潤す。ここをもってその百姓、毎年に豊かなり

★仁徳天皇十四年・是歳。又掘大溝於感玖。乃引石河水而潤上鈴鹿。下鈴鹿。上豐浦。下豐浦。四處郊原。以墾之得四萬餘頃之田。故其處百姓寛饒之無凶年之患。(【大意】難波に大堀を掘り、4万頃の水田を得たので、凶作の憂いがなくなった。)

 

 

《参考》

●「古市大溝」

https://www.city.habikino.lg.jp/soshiki/shougaigakushu/bunkazaihogoka/bunkazai/iseki_shokai/kofun_koki/2393.html

古市大溝は今からおよそ1400年以上前に羽曳野台地を開発するため掘られた巨大な遺構です。今では地下に埋もれ、住宅や道路の建築によって昔の姿は部分的にしか見ることは出来ませんが、当時は延長数km、幅8m、深さ4mの規模でした。『古事記』や『日本書紀』には、応神・仁徳天皇の時代に数多くの池、溝や堤を築いたことが書かれています。近年発掘調査の成果によれば、築造時期がもう少し新しい時期の可能性も考えられます。古代人は、この土木工事によって、羽曳野台地の広大な地域に水を流し、新たな耕作地を開拓していったと考えられます。ここに残された盛土は古市大溝の堤の一部で河内地域の壮大な歴史を証明する記念物として貴重な文化財です。『日本書紀』仁徳天皇条の★「感玖の大溝」の記事を当てはめる説もあります。

●「丹比大溝」

https://www.city.matsubara.lg.jp/bunka/bunkazai/9/5917.html

 

●「大阪平野の溜池環境―変貌の歴史と復原」大阪叢書/著:川内眷三/和泉書院2009

http://www.izumipb.co.jp/izumi/modules/bmc/detail.php?book_id=10288&prev=search

近世には濠水は灌漑用水に活用されていた。その名残か、外濠には数か所の堰があり、高さが異なる。北側を走る中央環状線沿いが最も高い所で、濠や大仙公園は大和川の流域外となる。最も低い西側には親水公園が整備され、濠水が住宅街へ暗渠化されて流出している。

1998年から水質浄化のために工業用水を導水している。17世紀頃まで狭山池と水路でつながっていたが、現在は数か所で寸断している。濠の近くにその水路跡が残っている。

2000年には濠から西に伸びる「大仙水路」と中世の環濠の名残の土居川や大阪湾ともつながった。

●四天王寺大学紀要第54号(2012年9月)文:川内眷三

大山古墳墳丘部崩形にみる尾張衆黒鍬者の関わりからの検討

―誉田御廟山古墳墳丘部崩形との関連性をふまえて―

大山古墳の周濠は、灌漑用水供給の機能をもつ大仙陵池として利用されてきた。堺廻り四ケ村の舳松村・中筋村・北之庄村・湊村(堺市堺区)の117町歩余りを灌漑し、その機能については喜多村俊夫の研究に詳述される。既にふれてきたように、狭山池用水を大仙陵池へ導水した経路を復原し、その灌漑機能を考察してきた。大仙陵池は立地する土地条件から極めて集水に恵まれず、年によっては 3 月になっても満水に達せず、それだけに幾多の困難な事情を克服して、集水・貯水に努めねばならなかった。中筋村庄屋(舳松村兼帯庄屋)であった南家の「老圃歴史」の文書から、相当の犠牲を払って狭山池用水の導水を企図した状況がうかがえる。狭山池に溜まり余って除け川へ捨てる水を、狭山池懸かりが不用の間に大仙陵池に導水しようとし、導水溝筋の諸村の利害を調整し、莫大な費用と労務をかけねばならなかった。水利の困難な事情は、百舌鳥古墳群の他の周濠池とも共通する課題であったが、多くの水懸かりを抱え規模が大きい大仙陵池が、最も集水の不利な条件下におかれていた。こういった水利事情のなかで、水利土木技術集団である★「尾張衆黒鍬者」が、灌漑用水池としての機能が著しく低い大仙陵池の浚渫に従事した記録と、さらに『堺鏡』に記された「尾張谷」をはじめ、★48谷があったとされることの、相関の共通項として、大仙陵池の集水・貯水を促すために「尾張衆黒鍬者」が谷筋の掘削を先導することによって、大山古墳墳丘部の崩壊に関わってきたのではないかという仮説を立てることが可能となる。そして、谷部造出にともなう残土を盛り上げたところが、突地地形として形成されたという見方が想定される。墳丘部を掘削し開析地を造出することによって法面が増加し、降雨時の集水を促進し、一時に貯水量をたかめる効果につながったものとみられる。

●日本史研究叢刊33「古墳と池溝の歴史地理学的研究」著:川内眷三/和泉書院2017

http://www.izumipb.co.jp/izumi/modules/bmc/detail.php?book_id=129598&prev=search

【川内眷三】

1944年堺市生まれ。現在、四天王寺大学人文社会学部言語文化学科准教授。専門分野は人文地理学、社会科環境教育。

 

 

《参考》

●「復元と構想~歴史から未来へ」/監修:大林組、加藤秀俊、川添登、小松左京 東京書籍株式会社

古代と同様の工法で築造した場合、工期15年8ヵ月(現代工法2年6ヵ月)従事する作業員6,807,000人(現代工法29,000人)、総工費796億円(現代工法20億円)と試算され、現地でこれ らの土工に従事したものは1日最大2,000人と推定している。超巨大古墳を築造する為に、1日 最大2千人もの人が集まったと言うことは、それらの殆どの人々が奴卑であったとしても、その地に★経済活動が有ったことがわかる。つまりそれらの人々は土工や埴輪作陶に従事するため 、当然自分達の食物栽培は出来ない。この事実は、これらの2千人にも及ぶ多数の人々の食物を余分に供給できたと言うことが判る。事実、当時の古墳時代の農業は縄文晩期から弥生時代に北 九州と近畿地方に大陸から渡来した米作技術は、近畿地方では相当発達していた。弥生時代の米 作では常時湿った沖積低湿地で米作が行われていたが、これでは稲穂が実った時期に田圃は乾燥しなければならないので、常時低湿地での収穫は好くない。しかし灌漑技術が発達し、田植 え時期には水が豊富にあり、稲穂が実れば田圃の水を抜く灌漑技術が発達し、飛躍的に米作収穫 量が増大した。また土壌も地下水位が高く常時湿り、強い還元状態になり、土中に含まれた鉄 分が二価の亜酸化鉄化合物となり、土の色は青灰色の軟らかな粘土になり丁度ドブの中の状態 に似ていて、グライ土壌といわれ、植物栽培にはそれほど適していないが、田植え時期の水の 為にこの低湿地で行っていた 。微高地の半乾田は植物栽培に適している、しかし田圃にする為 には、灌漑が必要なことは勿論、軟らかな低湿地耕作時で用いていた木製の鍬では駄目で、鉄 製の鍬が必要になった。つまり、超巨大古墳をもたらした技術は★灌漑技術と★製鉄技術である。この製鉄技術が炉、つまり窯で★製陶技術につながっている。

●「現代技術と古代技術による仁徳天皇陵の建設」復元:大林組プロジェクトチーム

https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/detail/kikan_20_idea.html

No.20「王陵」(1985年発行)アジアの東端に位置する日本にかつて、世界でも最大級の規模を有する墳墓がいくつも造営されました。3世紀後半から8世紀初頭にかけて、日本各地に造られた古墳の数は20万基いじょうにのぼるといわれています。それは、日本の黎明期における政権の充実ぶりとともに、土木技術とその技術者集団の水準の高さを物語っています。本郷はその「大土木時代」にスポットライトを当てました。OBAYASHI IDEAでは、往時の土木技術を検証するとともに現代技術による建設計画にも挑戦してみました。

https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/

 

・・・とても説得力があり、わかりやすい(科学的)研究です。古墳の目的が灌漑にあったかどうかは「?」ですが、灌漑技術や「製鉄技術」が重要であったことは当然だと思います。

 

 

・・・「水」は「いのち」、「人間」も「農作物」も。そこにからまなかったら「古墳」もできなかったでしょうね。