・・・「茨木アート」にも「令和」が登場していましたが、
【保田篤】
http://www.caso-gallery.jp/exhibition/2007/070320yasuda.html
196京都府生まれ1991京都市立芸術大学卒業1993京都市立芸術大学修士課程修了
《参考》ブルボンプチ
https://www.bourbon.co.jp/petit/
・・・令和の出典は「万葉集」からであると公表されています。
●「梅花(うめのはな)の歌三十二首の序文」
730年の初春、九州は大宰府(太宰府)の長官(役人)である大伴旅人の邸宅にて「梅花の宴」というものが催されました。
于時初春令月氣淑風和梅披鏡前之粉蘭薫珮後之香
初春の令月にして、気淑く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす
しょしゅんのれいげつにして、きよくかぜやわらぎ、うめはきょうぜんのこをひらき、らんははいごのこうをかおらす
初春のよき月(新春正月)に、外気はよく風は和らいで、梅は鏡の前のおしろいのように咲き、蘭の花は香り袋のように薫っている
・・・「令和」ではらちが明かないので、原文にある「令月」について考えてみました。
★「令月」
1 何事をするにもよい月。めでたい月。「嘉辰 (かしん) 令月」
2 陰暦2月の異称。
・・・私自身も「月」は好きですが、「月」を愛するのが日本人のようです。
●有職菓子御調進所「老松」当主から学ぶ、月と日本人の睦まじい関係/フーディーより
https://mi-journey.jp/foodie/11751/
月見そば、月見バーガー、卵かけごはん!?そういえば、日本には「月」にちなんだものが多い!?
●月とヨガと身体 – 私たちが知らない意外な関係/TULAより
https://yogatula.me/the-truth-about-the-moon-yoga-and-body/
日本人が月を愛でる習慣は、★縄文時代からあったとされています。農業や漁業を行う上で、月の満ち欠けによる潮の干満が関係していると考え、伝えられていたため、月は自然神として信仰を受けていたのです。特に満月の明かりは古代縄文人にとっては特別な存在であり、満月の日には豊作を祈る祭りや集会をしていたようです。
●縄文人は月を信仰していた/更級への旅より
http://www.sarashinado.com/2011/07/16/114/
縄文人と月の関係について考察した★「月からの使者」という面白い論文に出会いました。縄文人は月を、人間の命を宿すものとして信仰の対象にし、その月と人間をつなぐのがガマガエルだと考えていたというのです。この論文を書いたのは富山県の考古学研究家、沖津実さん。長野県富士見町の縄文遺跡展示施設「井戸尻考古館」に事務局がある山麓考古同好会発行の論文集18号(1995年発行)に載っていました。沖津さんの論考の一番の特徴は「遮光器土偶はガマガエルがモデル」という指摘です。遮光器土偶とは、土偶の頭部の目にあたる部分が、シベリアやアラスカのエスキモーと呼ばれる人たちが雪の強い反射光をさえぎるために着用する「遮光器」の形に似ていることから名付けられました。主に東日本から出土し、縄文時代晩期のものが多いそうです。姿の特徴は頭の部分に加え、大きなお尻、乳、太ももなど女性をかたどっていることです。胴の部分には文様が施され、朱などで着色された跡があるものが多いということです。完全な状態で発見されることはあまりなく、足や腕など体の一部が欠けていたり、切断された状態で見つかることが多いそうです。多産や豊穣を祈願するための儀式で土偶の体の一部を切断したのではと考えられています。とてもユニークな姿なので、宇宙人の姿を模したものであるという説まであるのですが、沖津実さんは遮光器土偶がたくさん見つかる東北地方の古代の呼び名である「蝦夷」の「蝦」という漢字の意味が、ガマガエルであることに思い至り、あるとき、土偶の姿がガマガエルに見えたのだそうです。
《参考》「月光仮面の歌」作詞:川内康範/作曲:小川寛興/歌:三船浩
月の光を背に受けて 仮面にかくしたこのこころ
風が吹くなら吹くがよい 雨が降るなら降るがよい
愛と正義のためならば 何で惜しかろこの命
わが名は月光 月光仮面
つらいだろうが今しばし 待てばしあわせやってくる
貧しい人よ呼ぶがよい 悲しい人よ呼ぶがよい
心正しき者のため ★月よりの使者ここにあり
わが名は月光 月光仮面
●「月に魅せられた日本人」/三菱電機より
http://www.mitsubishielectric.co.jp/me/dspace/column_w/cw75.html
日本は、中秋の名月をはじめとして、月を眺める文化が根付いていました。中秋の名月そのものは中国由来でしたが、その一ヶ月後の十三夜の月を眺める風習は日本独自のものですし、江戸時代にはさらに二十三夜や二十六夜の月の出を待つ風習もありました。また★「竹取物語」に代表されるように、多くの文学にも記され、信仰や風流の対象とされてきました。身の回りにも、月を模したお菓子や、食品類も多々あります。極めつけは、日本には月の別名がとても多いことでしょう。なにしろ、月齢ごとに別名があるのです。三日月はさすがに英語でも Crescent(フランス語では Croissant:クロワッサン)と名前がありますが、満月前後の月の月齢に細かく名前があるというようなことは欧米ではありません。それどころか、狼男に代表されるように、もともと満月にあまりいいイメージはもっていないようです。英語で lunaticと言えば「気がふれている」という意味になります。このようなニュアンスの呼び名は、日本ではあまり見かけません。
●「月を愛する日本人」/一条真也オフィシャルサイトより
http://www.ichijyo-shinya.com/message/2003/11/post-35.html
日本人は月が好きです。日本文化を考えるうえでのキーワードは「自然」ですが、松尾芭蕉は、自然を「造化(ぞうか)」と呼びました。「造」はつくりだすこと、「化」は形を変えることです。英語の「ネイチュア」と見事に一致していますね。すなわち、ネイチュアとは、物ではなく運動なのです。そして日本の自然において、★「雪月花」がそのシンボルとなります。つまり、雪は季節の移り変わり、時間の流れを表わし、月は宇宙、空間の広がりを表わします。花は時空にしたがって表われる、さまざまな現象そのもののシンボルといえるでしょう。「造化」の三大要素の一つが「月」である意味はとても大きいと思います。日本では、明治の初めまで暦は中国にならって★太陰暦を使っていました。いうまでもなく、太陰暦というのは月を基本にした暦であり、★農耕のプランもそれによって決められていました。当然、日本人の生活全体にわたって月が深く関わってきたことがわかります。
日本人の月好きは、太陽暦が採用された明治以降もほとんど変わりません。やっと昭和30年になって、石原慎太郎が小説「太陽の季節」を発表し、その翌年、弟の裕次郎の主演で映画化され、大ヒットしました。このヒットで「太陽族」という流行語まで生まれましたが、それも全体の流れからすれば単なる一時的な現象にすぎません。『古事記』の中の「天の岩戸」の物語など、いくつかの物語を除いて、日本文学史のほとんど全体が「太陽の時代」というよりも「月の時代」でした。それは、日本人の感性が月とぴったり合うからに他なりません。『古事記』や『日本書紀』には月読尊(ツキヨミノミコト)という月の神様が登場し、『万葉集』では月を「月人壮子(つきひとおとこ)」などと呼んでいます。そして、なんといっても日本には世界最古の長編小説である★「竹取物語」というロマンティックな月の物語がありますね。また、月の美を描いた物語としては、『源氏物語』の須磨巻、『平家物語』の月見の章も有名です。平安時代に入ってからは、多くの歌人が月光のただならぬ美しさを和歌に詠みました。「三五夜中新月の色、二千里の外故人心」という中国の詩人・白楽天の詩句が平安時代の貴族に愛され、時間と空間を超えて、見る者に過去や未来、それに遠く離れた人を思わせる不思議な力の持ち主としての月が歌われました。これこそが、日本人の見出した月の美でした。
「月の色に心をきよく染ましや 都を出(いで)ぬ我身なりせば」これは「歌聖」といわれた西行の歌です。西行の歌集『山家集』を見ると、月の歌が115首も入っています。この数は、歌集の常識を超えた多さです。とくに、右の歌は、西行が都を出て出家する時のものだと伝えられています。彼の人生における最も重要な場面に月が関わっているというわけです。西行が「歌聖」なら、「俳聖」といわれたのは芭蕉です。芭蕉もおびただしい数の月の句を詠んでいます。たとえば、「名月や池をめぐりて夜もすがら」など、芭蕉の全発句937句のうち月を詠み込んだものが1割以上の106句におよんでいるのです。ちなみに、太陽を詠んだものはわずか数句にすぎません。明治以降は、「荒城の月」「月の砂漠」「朧(おぼろ)月夜」などの唱歌が長く愛唱され、歌謡曲では「大利根月夜」、民謡では「炭坑節」などが月の歌です。太陽をテーマにした歌がショートヒットしかしないのに比べて、月をテーマにした歌が多くロングヒットしている事実こそ、日本人の美意識が太陽よりも月に通じていることを示しているように思います。さあ、こころゆくまで、秋の名月を味わいましょう!
・・・そう言われると、なるほどそうですよね。
●月と日本人の不思議な関係/リアルライブより
https://npn.co.jp/article/detail/40125799/
日本では旧暦8月15日を十五夜、旧暦9月13日を十三夜と言い、月が見える場所にススキの穂を飾り、月見団子や栗、里芋や枝豆を皿に盛り、御酒を供えて月を眺める風習がある。特に十五夜は中秋の名月と呼ばれる。この十五夜の風習は、日本と同じく月を信仰する中国から伝わったと言われている。ただし、中国では十三夜を祀る習慣はない。日本人が月を愛でる習慣は、縄文時代からあったとされる。縄文時代の人々は自然に宿る精霊を信仰していた。これらはアニミズム信仰と言われ、特に月は月の満ち欠けによる潮の干満や、女性の月経周期が月とも関係があると思われていた。月は古代縄文人によって、自然神としての信仰を受けていたのである。特に満月による月の明かりは、現在のような照明器具のなかった古代において、特別に神聖視されたと思われる。古代縄文人は満月の明かりで祭りや集会をしていたとも言われている。月は日本人の中では信仰の対象とされている他に、おとぎ話の竹取物語の主人公である。かぐや姫は、月から来たお姫様の物語であった。また昔から月にはうさぎが居て、お餅をついていると信じられてきた。それは月の影の模様がうさぎに似ており、満月ではうさぎがお餅をついていると思われてきたのである。これら日本人の月信仰と比較して、西洋諸国では月を忌み嫌うのが対照的である。彼ら西洋人によると、月は死を暗示する物とされ、実際に現在でも西洋諸国では、満月の日に凶悪事件が起きることが多いという。怪物狼男の話でも、狼男は満月を見て人間から狼男に変身すると言われており、西洋人の多くは満月を見ると情緒不安定になる傾向が強いという。月に対して日本人とは全く逆の発想を西洋人が持っているのは、なかなか興味深いものである。
●日本人にとって、満月が特別だったのはなぜか!?/ウェザーニュースより
京都の桂離宮や銀閣寺が月の満ち欠けや昇ってくる時間・場所(月の運行)と密接に関係していることを知っていますか?桂離宮の主な書院群はお月見をするための方位に向けて建てられているのです。この謎に迫っていくと、名月を愛でるために建てられた離宮像が浮かび上がってきます。実は月見台を中心にした建物の方位は、絶景の月が眺められるよう、設計されていたのです。桂離宮が造られた1615年の中秋の名月の月の出の方位は月見台の向きと完全に一致しています。つまり、桂離宮は一年でもっとも月を美しく見ることができる中秋の名月に照準を合わせて立てられた、いわば「観月のための壮大な装置」だったというのです。文化人として知られた足利義政が建てた銀閣寺もやはり、月を愛でるための「月の御殿」と呼ばれています。かつて電気もなかった頃、日没後は、あたりは真っ暗になっていたことでしょう。夜の月明り、特に満月の明るさは現代の私たちでは想像できないぐらい華やいだものだったのです。では、高貴な人たちは満月の夜、何をして過ごしたのでしょうか。裏千家今日庵文庫長の筒井紘一さんによると「月を愛でるのが当時の人にとって“ハレ”でした。お茶事や歌会が行われたのでしょう。お茶事は4時間以上かけて繰り広げられる二幕仕立てのドラマでした。一幕目は炭を入れ、香を焚き、花を活けて客人を招く準備をし、酒と食事をゆっくり味わった。二幕目はしつらいの模様替えをして、お茶をふるまったのです」月が昇っている間中、こうした饗宴を楽しんでいたとすれば何と優雅な時間だったのでしょう。古くから日本人にとって自然の美しさや心情を表現するのに欠かせないのが「月」の存在だったのです。
●秋の夜長に中秋の月を愛でる。その伝統とお供え/LIFULLプレスより
https://www.homes.co.jp/cont/press/reform/reform_00250/
旧暦で秋は7月から9月にあたり、それぞれ初秋、仲秋、晩秋と呼ばれた。旧暦は「太陰暦」とも呼ばれるとおり、太陰・すなわち月の満ち欠けと連動している。新月を1日とし、次の新月には新しい月が始まる。つまり太陰暦で15日は必ず満月となる計算だ。そして中秋は旧暦7月~9月の中間にあたる日、つまり、旧暦8月15日の別称でもある。「中秋の名月」とは、この夜の満月を指す言葉なのだ。似たような言葉で「仲秋の名月」があるが、これは旧暦8月の月夜全般を指す言葉なので、間違わないようにしよう。この時期に満月を眺めるのは、暑さがひと段落し、涼しい夜長を楽しむ意味があるのと、空気が澄んできて月が綺麗に見えるからであると言われているが、そもそも農耕国家の日本において、月の満ち欠けは祭儀の合図にもなっており、新月や満月の夜には、さまざまなお祭が行われてきた。中秋の名月も、農民にとっては、収穫祭と密接にかかわっていたのである。
●中秋の名月―美しい光に魅せられて/そうだ京都へ行こうより
https://souda-kyoto.jp/knowledge/culture/harvest_moon.html
古く日本では、大陸(中国)から伝わってくる文化や芸術などを尊び、貴族や僧たちはこぞってそれらを取り入れたようです。「お月見も同様で、中国では仲秋節に月餅を食べるなど十五夜の円い形が『縁起が良い』、『円満』とされて珍重されたようです」と下泉さん。「お月見の始まりは諸説あるようですが、その風習が日本に入ると美しさはもとより、満ち欠けする姿のはかなさを特に愛でるようになりました」。高貴な方たちにとって、お月見は最先端の文化だったのでしょう。この風習はその後、次第に庶民にも広がってゆくことになります。そもそも旧暦では7月から9月までが秋で、それぞれ、孟秋、仲秋、季秋と呼びます。『中秋の名月』とは秋のちょうど真ん中、8月15日の夜に見える月のこと。収穫期を直前に控え、ススキ(魔よけ)と月見団子(豊作の象徴)を供えて『五穀豊穣』を祈願する現在のお月見のスタイルが庶民の間で確立されていったようです。
★名月をとってくれろと泣く子かな(小林一茶)
Cry for the moon.
「cry(ask) for the moon」「aim at (want) the moon」はすべて「ないものねだりをする」という意味です。
・・・「月」の歌も多いですね。きりがないので、この辺で。