早秋(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・本当に久しぶりの京都、紅葉には少し早いですが、相も変わらず京の都は人・人・人です。

 

 

《参考》「歌舞伎の歴史」 

http://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/2/2_01.html

『当代記』という史料の1603年[慶長8年]の項に「この頃、かぶき踊りというものが踊られた。出雲の巫女を名乗る国という女性が、京に上り変わった風体の男の扮装をして踊った」という意味の記述が残っています。この国という女性は、歌舞伎の歴史を語る上では一般的に★「出雲の阿国[お国]」とよばれてきました。史料にある「変わった風体の男」とは、当時奇抜な服装をし、世間の秩序に反して行動する「かぶき者」とよばれた人々をさします。「かぶき」は「傾く(かぶく)」という動詞から派生した言葉です。阿国の踊りは、図に描かれているようにかぶき者の扮装をまねた男姿で、茶屋で遊ぶ様子などを演じたため「かぶき踊り」とよばれ人々の人気を得ました。歌舞伎の歴史は、この出雲の阿国の「かぶき踊り」から始まったとされています。阿国が創始した「かぶき踊り」が人気を博すと、それをまねた遊女や女性芸人の一座が次々と現れました。このような女性たちによって演じられた「かぶき踊り」を「女歌舞伎」といい、京だけではなく江戸やその他の地方でも興行され流行しました。図は京の四条河原の仮設の舞台で行われた「女歌舞伎」で、そろいの衣裳に身を包んで輪になった遊女たちが、当時最新の楽器だった三味線に合わせて踊る様子を描いています。しかし「女歌舞伎」は、風俗を乱すという理由で1629年[寛永6年]前後から禁令が出されるようになり、次第にその姿を消していきました。「女歌舞伎」の禁令により、前髪のある成人前の少年が演じる「若衆歌舞伎(わかしゅかぶき)」に人気が集まります。しかしこれも風俗を乱すため、1652年[承応元年]頃から禁令が出されるようになります。この禁令以降、前髪をそり落とした野郎頭(やろうあたま)の成人男性が演じる「野郎歌舞伎(やろうかぶき)」の時代に入っていきます。

 

 

「若衆歌舞伎(わかしゅかぶき)」の時代にも、女性役を演じる「女方(おんながた)」は存在しましたが、技術よりも容色が重視されていました。しかし野郎歌舞伎では、「女方」を専門に演じる俳優が登場し、技術的に女性らしさを表現する方向へと発展していきます。また野郎歌舞伎は、当初、歌や踊りによる短い場面で完結した「離れ狂言(はなれきょうげん)」をいくつか続けて上演していましたが、次第にストーリー性をもつ複数の場面からなる「続き狂言(つづききょうげん)」が上演されるようになります。やがて複雑化したストーリーを表現するために、登場人物を類型化して演じるようになり、延宝年間[1673年~1681年]には、役の年齢や性格に基づいた「役柄(やくがら)」が確立しはじめます。具体的には、若い女性を演じる「若女方(わかおんながた)」、男性役の「立役(たちやく)」、男性の悪人の「敵役(かたきやく)」、中年から老人の女性を演じる「花車方(かしゃがた)」、滑稽な役を演じる「道化方(どうけがた)」などが挙げられ、それぞれの役柄にあった演技術が編み出されていきます。(以下略) 

 

 

 

・・・次は、 

 

《建仁寺》 

605-0811京都市東山区大和大路四条下ル小松町584/075-561-6363 

https://www.kenninji.jp/

臨済宗建仁寺派大本山の寺院。山号を東山(とうざん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は★栄西である。京都五山の第3位に列せられている。俵屋宗達★「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や、漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られる両足院などが見られる。また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺である。寺号は「けんにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。なお、しばしば日本最初の禅寺と言われるが、これは間違いで博多の聖福寺が最初の禅寺である。 

京都最初の禅寺『建仁寺』の開山栄西禅師(千光祖師)は二度目の入宋で、天台山の虚庵懐敞禅師より臨済宗黄龍派の禅を嗣承され、建久2年(1191年)に帰朝されます。ここにわが国初の臨済禅がもたらされます。幾多の圧迫を受けながら建久9年(1198年)「興禅護国論」を書き、禅宗の時機性、国家性、戒律の重要さを強調されます。冒頭の―大哉心乎(おおいなるかなしんや)―は今もって我々が心に刻んでおかねばならない言葉です。また禅師は在宋中、求道修行のかたわら、喫茶の法を究め帰朝に際して茶種を将来され、喫茶の風を全国に広められ、★日本の茶祖としても親しまれております。建保3年(1215年)禅師は遷化されますが、その法灯は連綿と受け継がれ、その精神はわが国民の心の支柱として深く根づいています。

 

 

・・・今回、久しぶりに「建仁寺」を訪問したのは、 

 

★第10回「金澤翔子書品展」 

https://www.kenninji.jp/news/?p=257

当山におきましては、本年11月3日(土)~11月11日(日)までの9日間に亘りまして、第10回金澤翔子書品展を開催致します。本年は10回目の開催を記念いたしまして、翔子さんによります席上揮毫を11月3日(土)午後3時より法堂にて行います。翔子さんによる魂のこもったパフォーマンスを間近で見られる機会ですので、是非お越し下さい。 

日時:平成30年11月3日(土)~11月11日(日) 

会場:大本山建仁寺「大書院」 

席上揮毫★平成30年11月3日(土)午後3時~ 

会場:法堂(はっとう)にて 

 

・・・翔子さんのファンなんです。一度は実際に拝見したいと思っていました。