《「俳諧新十家類題集. 春,夏,秋,冬,雑部」》編★俳諧堂耒耜、阿里園六轡
・・・俳句同人「六郷社」について、
★「六郷」
明治4年(1871)7月の廃藩置県により郡内は、堺・小泉両県に分属したが、同年11月全部堺県となる。同13年河内郡・若江郡・渋川郡・高安郡・大県郡・丹北郡の六郡連合の八尾郡役所(のち丹北高安渋川大県若江河内郡役所と改称)が若江郡寺内村大信寺(現八尾市)に設けられた。同14年大阪府に所属。同22年の町村制施行に際し、若江郡の加納・玉井新田の2村(現東大阪市)を編入のうえ、日根市村・大戸村・枚岡村・枚岡南村・池島村★東六郷村・英田村・三野郷村(現東大阪市・八尾市)が成立。同29年当郡及び若江郡・渋川郡・高安郡・大県郡・丹北郡と志紀郡の一部(三木本村)が合併して中河内郡となる。
★「六郷井路」
古箕輪から徳庵(寝屋川)まで続く、十六ヶ村組合(鴻池新田、吉原、新庄、箕輪、灰塚、加納、橋本新田等)の悪水井路(農業用排水路)でした。寛文元年(1661)に「新開池」の中に開削された水路で、新開池の新田開発後も縦横に開削された水路と接続される事なく、現在に至っているそうです。
★「六郷川」
鴻池新田南にある五箇井路の南側にある「六郷井路」は、「六郷川」とも呼ばれています。「六郷橋」もあります。
★「六郷神社」東大阪市本庄1-4-18
御祭神:應神天皇、仲哀天皇、神功皇后。当神社の創建年代は不詳なれども、往古は、八幡宮又は八幡神社と称した。大正11年刊行の大阪府全誌に依ると、六郷神社は、大字本庄の中央字宮の内にあり、もと八幡神社と称し應神天皇、仲哀天皇、神功皇后を祀れり、明治5年村社に列し、同40年9月19日大字中野字山王の村社★日吉神社(大山昨命)、大字箕輪字中ノ町西の同八幡神社(應神天皇)、大字北ノ町東の八幡神社(應神天皇)、大字横枕字春日の春日神社(武甕槌命、經津主命、天兒屋根命、姫大神)を合祀して、今の社名に解消せらる。境内地は395坪にして、本殿、拝殿、神具庫を存し、末社に神明社あり。氏地は本村全部、祭日は10月15日なり。と記載され「現存する社殿及境内工作物は末記の通りである。特に本殿浜床に舗設せられし、木造彩色狛犬の台座箱内側に寛延2年(1749)長月の年号が記され、今(平成7年、1995)を遡ること246年前に当り、東大阪市文化財専門委員の調査で江戸時代中期末頃の作と評されし現在の本殿(木造コケラ葺、流造、丹塗、彩色)及、随神像は共に、同期のものならんか。
●「日吉神社」東大阪市中野1-8-7
明治39年の神社整理令により、春日神社(横枕)★日吉神社(中野)と本庄・箕輪・古箕輪の八幡神社の五社は、本庄の八幡神社に合祀されて「六郷神社」となりましたが、昭和20年代に各神社は旧地に復社されました。
《参考》「東大阪市文化財ガイドブック」より
神社の西側の道が旧河内街道です。神社は、江戸時代以前には、高倉墓地のところにあったと伝えられ、もと山王権現といって、大山咋命(おおやまくいのみこと)を祀っています。安産の御札御礼を出していて、村中で難産する人はいなかったということです。神社の西側の家は元村長、六郷吟社を主催した★西村宗逸氏の旧宅です。西村宗逸氏の旧宅の西側には、「西村家の高札」や「六郷吟社句碑」が道沿いにあります。江戸時代、中野村の庄屋をつとめた家です。現在、九面の高札や、役人を送迎する提灯も残されています。高札とは、室町時代以降、明治時代初期にいたるまで、規則、命令を草書書かなまじり文で墨書きし、町の辻や、村の中心部に高く掲示した板札のことです。
《六郷社・頌徳碑・燈籠句碑》
578-0913東大阪市中野1-19-11
「六郷社と西村宗逸」案内板より
1915年(大正4)に刊行された「萬歳楽」という句集による六郷社は明治7年2月に創立されました。俳句会は41年間に233回も開催され、日本の地方文学教育に貢献があったと載せられています。六郷社は中野村の西村宗逸が、地名★六郷庄から名付けられた俳句会です。句集は「花稔集(明治23)」、「六郷吟社梅五句集・同句抄(大正15)」など多くのものが刊行されました。河内地方では、江戸時代から俳句などの文芸活動が盛んでした。六郷社も、その風土の香りを受け継ぎ、大津市や★大阪市内の各句会とも交流を持ち、昭和の初めまで活躍していました。頌徳碑と燈籠句碑は、1911年(明治44)に建てられました。西六郷村の村長であった西村宗逸は、村の政治に力を尽し、貢献があったとして藍綬褒章を受賞しました。これを記念して村民有志が頌徳碑を建碑しました。また、その西側に句会の六郷社中によって燈籠句碑も建てられました。句碑には「来る年の尚いつまでか生の松」と刻まれています。宗逸の地方文化の向上に果たした役割は大きいものがありました。平成25年3月
他の石碑も同様に六郷社の方達によって、1915年(大正4)に建てられた「御即位大典句碑」となっています。句碑には「千秋の光重ねて菊かおる鳳拝」「八十翁耕山書」と刻まれ、八十翁耕山とは西村氏の俳号だそうで、裏面には六郷社の方達の名が連記されています。
・・・露香さんとの交流も当然あったと考えられます。
野も山も 皆我が物ぞ 今日の月 貞英
旅こゝろ蝶の羽風に動けり 露香
あらたにわか国内となれるたかさこ島のもりそむ山をおもひよせて おほきみのめくみにもりそ山人も いてゝつかふる時はきにけり 春愛
御火しろくたけ歌人も霜の声 貞瑛
汗ともにぬくふ野山の景色かな 貞璵
・・・露香さんの道楽は、もちろん「俳諧」にとどまらず、
《小唄の曲》
●高時(本調子)
作詞★平瀬露香/作曲:三世杵屋正次郎
みなここに 三つの鱗と 名も高時が
浮かれ天狗の酒盛りに
祇園豆腐の田楽舞は
流石日本に類無き
「名高時天狗酒盛」という明治期の歌舞伎より。九代目市川団十郎が北条高時を演じた。江戸小唄「みなここに(高時)」は、団十郎の天狗舞を日本一と讃えて作られたもので、華やかに出来ており、小唄振りもある。
●うその固まり(本調子)
うその固まり 誠の情け
その真中にかきくれて
降る白雪と人心
積もる思いと冷たいと
わけて云われぬ世の中
江戸元禄時代の上方端唄のうちの最高と思われる傑作。ただし途中で廃絶し、現在江戸小唄として唄われているものは明治11年に大阪の通人である★平瀬露香が東京から初代清元菊寿太夫を招いて新しく節付けさせたものである。世の中は、うその固まりだがしかしその中に人情の誠も認められる。良いも悪いもどちらも決めきれない世の中である、といった意味。
《「近代数寄者の茶の湯」》著:熊倉功夫より
「露香の生活ぶりは常軌を逸したところがあった。蝙蝠大尽とあだ名されたように、夕方起きだすと、教えを請うて集まってくる茶の湯や能楽の家元、あるいは囃子方、清元、★俳諧の宗匠たち、道具屋、美術家、その他得体の知れない連中と一緒に食事をする。食事が済めば酒を出し、露香は下戸であったらしいが数寄雑談を楽しんで深更に及ぶ。彼らが帰ってからが露香★読書の時間で、万巻の書を読んだ」
【熊倉㓛夫】(1943~)
日本の歴史学者(日本文化史・茶道史)。学位は文学博士(東京教育大学・1978年)。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授、MIHO MUSEUM館長、茶の都ミュージアム館長、静岡文化芸術大学名誉教授・前学長、林原美術館元館長。2013年中日文化賞受賞。
《逸翁自叙伝》著:小林一三(1873~1957)より
若き日の逸翁が露香いきつけの料亭で露香を見かけたことを、その自伝に書いている。「平瀬露香翁を、私は二、三度襖越しにぬすみ見た。まことに上品な痩形の老人で、取り巻きの老妓に囲まれて、しめやかに語る。時に三味線の静かな音色、つづみの音、笑い声、★粋な小唄・・もちろん眼のあたりに見たのではないが、小説的に感興し得る私の想像力は、春信の浮世絵のような夢の世界を描いて、その法悦を味わい得る嬉しさを禁ずることができなかったのである」
《おまけ》「曾根崎艶話」著:急山人(小林一三1873~1957)
本書は「急山人」というペンネームで大正5年1月に★「籾山書店」から刊行されました。阪急電鉄や東京電燈会社、東宝劇場などの経営者である小林が大正4年12月、43歳のときに執筆したものです。「襟替」「イ菱大尽」「梅妙」「紅箱の蕾」など、花柳界を舞台とした小説が収められています。青年時代に大阪で花柳界を知った小林一三が、長い間、抱き続けてきた「曾根崎新地」に対する限りない愛着が「曾根崎艶話」となって結晶したのかも知れなません。この初版は、出版後まもなく絶版に処せられました。とくに「イ菱大尽」が大問題となりました。それは当時、関西歌舞伎の花形であった中村雁治郎、北陽の名妓である喜代治、大阪財界の大立者・土居通夫をモデルとした実話小説であったからでした。名前はちょっと変えてありますが、誰が読んでもすぐに分かったことでしょう。今とは異なる戦前の世、風俗紊乱として告発され、即席裁判では罰金も課せられたようです。
《参考》「籾山書店」
籾山梓月(1878~1958)は、明治後期から戦前にかけての日本の★俳壇の重鎮。旧姓は吉村、本名は仁三郎(じんざぶろう)。俳号に庭後、江戸庵など。茶道では宗仁と称す。俳書堂・籾山書店の経営者であり、俳句総合雑誌の草分け『俳諧雑誌』の創刊者・主宰者。他、『時事新報社』、昭和化学などの取締役を歴任。
・・・実は、この初版本を入手いたしました。私の「道楽」もとどまりません。へへへ。