平瀬露香(19) | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

・・・松平治郷(不昧1751~1818)は、1500両もする天下の名器「油屋肩衝」を購入したという。 

 

《油屋肩衝》蔵:畠山記念館 

https://www.ebara.co.jp/csr/hatakeyama/colle019.html

大名物。漢作肩衝茶入。古来大名物茶入中の首位として尊重されたもので、堺の町人油屋常言(浄言)およびその子常祐(浄祐)が所持していたのでこの名があります。同種の肩衝茶入に比べて口径がやや小さく、甑廻りに輪筋が一本あります。また腰のあたりに沈筋が一本あり、その位置か他の茶入に比べてやや下の方にあるのは口径の小さいことと共にこの茶入の特徴といえます。総体に柿金気色でその上に黒飴釉の景色があり、置形は肩下からむらむらと一面に広がった模様の腰紐が、下の方で一筋のなだれとなり盆付際で終わっています。この置形に向かって右手に小さい火間があります。全体に釉質は見事で金気が多く青・茶その他数々の色彩があり、景色も全部に及んでいてどの面にも見所があります。裾以下は濃い鼠色の土をみせ、底は板起こしであります。時代・作行・格好・釉質・景色など何一つとして整い備わっていないものはなく、かつ無疵で持ち疲れの跡がないようです。1587年(天正一五)の北野大茶会の際、豊臣秀吉が常言に命じて献上させ、代わりに銭三百貫および北野茄子を授けました。のちに福島正則が拝領し、さらにその子正利になって徳川幕府に献上しました。1626年(寛永三)に将軍秀忠はこれを土井利勝に与えましたが、土井家では財政困難のため河村瑞軒に売り渡し、程なく冬木喜平次に移りました。そして天明年間(1781-9)に次第に家運の傾いてきた冬木家から★松平不昧の手に入りました。値★一万両といわれたこの茶入も、飢饉で冬木家の家運が衰えわずか★一千五百両であったといわれます。不昧は天下の茶入を歴観してますますこの茶入の優秀さを知り特に愛蔵しました。もと三つあった袋にさらに太子広東・本能寺緞子・下妻緞子の三つの名物裂の袋を加え、利休の文を添掛物とし若狭盆をも添えて、不昧所持品中最高位の圓悟の墨蹟と共に一つの笈櫃中に納めました。この笈櫃は現在もこの肩衝を納めて残っています。参勤交代の時は士人がこれを担って不昧の前を行き、本陣到着後もこれが床に据えられない前には不昧もまた着座しなかった。家中の士もまたこれを見ることができず、家老ですら一生にただ一度拝覧の栄を得るだけであったといわれます。その秘蔵振りがこれでわかりましょう。かつて薩摩侯が将軍がこれを所望したらどうするかと不昧に冗談でいいますと、将軍の命はもとより否むことができないが隠岐一国ほどは貰いたいと答えたということであります。(『古今名物類聚』『麟鳳亀龍』『諸家名器集』『古名物記』『利休百会解』『雲州宝物伝来書』『松平不昧伝』『大正名器鑑』)

 

 

・・・さて、露香さんはどんなお宝を購入していたのか調べてみました。

 

 

●膳所耳付茶入/歌銘:不昧「秋風」/不昧所持★平瀬家伝来 

千草屋・平瀬宗十郎家伝来という来歴がある。平瀬露香は不昧公に縁のあるものはどんなものでも欲しがったという話がある。 

 

●井戸脇茶碗「長崎」★平瀬家伝来→高橋箒庵所蔵 

露香は三十二銀行頭取を勤めたりしたしたが、段々と家業が衰退してしまい、とうとう売り立ての憂き目を見ることになった。しかしこの「長崎」は二度にわたる売り立ての際にも露香は手放さなかったそうだ。

 

茶杓/銘「宗仙のおもかげ」作:片桐石州/不昧所持★平瀬家、益田家伝来

 

 

★重文「平瀬家本源氏物語」(文化庁)/鎌倉時代後期の善本 

本写本の平瀬家に入るまでの伝来は不明であり、露香の代に平瀬家に入ったのかどうかも不明である。これについて古典籍や古活字版の研究で知られる書誌学者、国文学者の川瀬一馬は、江戸時代後期の考証学者である狩谷棭斎(安永4年12月1日(1775年12月23日) - 天保6年閏7月4日(1835年8月27日)が1816年(文化13年)に関西方面を旅した際に素性も事績も不明な「退六」なる人物が所蔵していた源氏物語の写本を調査して『西遊日記』に記録しているが、この写本の各巻の鑑定筆者が現在の平瀬本に見られるものと同じであることから、このとき狩谷が見た源氏物語の写本は現在の平瀬本ではないかとしている。  

本写本は平瀬家の所有となった後、平瀬露香の没後も同家に伝えられており、山脇の調査時(1919年(大正8年)ころ)は露香の養子である平瀬家第8代当主★平瀬三七雄(1876年(明治9年) -1927年(昭和2年)、春齢・露秀とも称している。)の所有とされており、1930年(昭和5年)ころの池田亀鑑の調査時には平瀬三七雄の夫人(平瀬家第9代当主)の所蔵とされている。平瀬家ではこれを非常に大切にし、「指でめくることを禁じられており、竹べらでめくらなければならなかった。」とされている[12]。このために用意された専用の竹べらは本写本が文化庁所蔵となった現在も「アケルヘラ」と書かれた紙に包まれた形で本写本と共に保管されている[13]。  

良質な源氏物語の写本を求めて明治時代後期から始まった写本調査の中で、良質な河内本系統の写本はすでに失われたと考えられていた中で1919年(大正8年)4月に山脇毅によって河内本の写本として初めて発見され1921年(大正10年)になって論文によって広く紹介された[14]。山脇は本写本自体の調査によって本写本54帖のうち30帖は河内本であるとし、さらに本写本の本文と河海抄に引用された本文を比較してさまざまな検討を行っている[15]。  

1921年(大正10年)3月、京都大学文学部から簡単な解説を付して本写本の桐壺と真木柱の2帖がコロタイプ版で刊行された。  

1930年(昭和5年)に池田亀鑑は後に校異源氏物語及び源氏物語大成に結実することになる源氏物語の写本調査の中で、松田武夫を伴って大阪の平瀬家を訪れ本写本を調査している[16]。  

1932年(昭和7年)11月19日および20日、池田亀鑑によって「河内本を底本とした源氏物語の校本『校本源氏物語』の最終的な稿本が完成した」として東京大学文学部国文学科において開催された展観会にも本写本が展示されており、その際発行された目録では、本写本は河内本系統三十四種(第1~第34、第122(底本))、青表紙系統六十二種(第35~第97)、別本系統二十四種(第98~第121)の中で尾州家河内本に続いて4番目に掲げられている。但し、その目録には「(写)」との付記があるため、この展観会に実際に出品されたのはこの写本そのものではなく池田または池田の作業を手伝った人物が写本を筆写したものであろうと考えられる。この後池田亀鑑による源氏物語の校本作成の作業は、青表紙本系統の最善本であるとされた大島本を底本としたものに大きく方針を変更されることになり、完成までにさらに10年をかけてようやく1942年(昭和17)刊行の「校異源氏物語」(及び戦後刊行された源氏物語大成)として世に出ることになったが、本「平瀬本」はその中でも対校本の一つとして採用されており、さらに『源氏物語大成 研究資料編』において「現存重要諸本」のひとつとして簡単な解説が加えられている。1941年(昭和16)7月3日付け官報告示により狭衣物語が混入している『竹河』巻を除く本写本の53帖が「紙本墨書源氏物語五十三帖」として当時の旧国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定された。本写本を受け継いだ平瀬家第9代当主は戦後になって元々平瀬家の一別宅であった京都室町の家に居住していたために、本写本は一時期「京都平瀬家本」と呼ばれたこともある。写本は、重要文化財未指定であった竹河1帖を含め、1999年(平成11)、東京の古美術商から文化庁が購入した。2008年(平成20)1月19日から3月10日には平瀬露香の没後100年を記念して大阪府大阪市の大阪市立大阪歴史博物館において特別展『没後100年 最後の粋人 平瀬露香』が開催され、当時すでに平瀬家を離れて文化庁保管となっていた「平瀬本源氏物語」のうち夕顔、紅葉賀、須磨、明石、藤裏葉、若菜上、若菜下、幻、匂宮、浮舟の各巻が「平瀬露香にゆかりのある文物の一つ」として展示された。

 

・・・解説を読むほどに、これってスゴイものなんだとわかります。

 

 

●御本茶碗/歌銘「時しらぬ」作:茂三/不昧所持★平瀬家伝来 

高麗茶碗の一種で、17~18世紀にかけて、日本からの注文で焼かれたものをいいます。御本の名前は、御手本の意で日本で作られた手本(茶碗の下絵や切り形)をもとに朝鮮で焼かれたことが由来です。また、これらの茶碗には、胎土の成分から淡い紅色の斑点があらわれることが多く、この斑点を御本または御本手(ごほんで)と呼ぶこともあります。 

 

●赤筒茶碗/銘「有明」★平瀬家伝来→善田好日庵→宮下玄覇蔵 

「光悦七種」には2種類あり、1つは「不二山」(白、国宝)、「雪峰」(赤、重文)、「障子」(赤)、「鉄壁」(黒)、「毘沙門堂」(赤)、「雪片」(赤)、「七里」(黒)であり、もう1つは「加賀光悦」(赤、重文)、「雨雲」(黒、重文)、「時雨」(黒、重文)、「紙屋」(飴)、「鉄壁」(黒、焼失)、「有明」(赤)、「喰違」(黒)である。これは、江戸時代後期の『本朝陶器攷證』(金森得水著、資料添付)にみえる12碗が根拠となっている(「七里」は同書に記載なし)。また、『大正名器鑑』は「光悦十作」として、「有明」など上述の茶碗のうち8点と、「黒光悦」(黒)・「ヘゲメ」(赤、焼失)を挙げている。『(千家)中興名物記』には「光悦赤筒 水野和泉守/横山藤七/銘 有(明)胴に青替り有之」(/は改行)とあり、『本朝陶器攷證』には、「光悦茶碗高名の品」として、「有明 赤筒青火かはり有水野泉州公家士横山藤七」とある。有明は赤楽の筒状の茶碗であり、青い火替わり、つまり青味を帯びた窯変があると記されているのである。「有明」と書かれた箱は光悦自身が制作した共箱であることから、銘も光悦自身が、茶碗の景色を有明の月に重ねてつけたものであろう。同茶碗の箱書によると、江戸時代末期の大坂の豪商★平瀬露香が所持しており、後に京都の道具商・善田好日庵が愛蔵していた。そして平成27年、古田織部美術館長で宮帯出版社社長の宮下玄覇が入手した。宮下は、「300年の時を経て、同じ書籍出版に携わる者の手に渡ったことに不思議な縁を感じる」と語っている。 

 

●「菊月五器」名物:朝鮮茶碗/紅葉五器 

名物。朝鮮茶碗、紅葉五器。釉色が青紅相交じって陰暦9月の菊花紅葉を思わせるところから、小堀遠州か名付けたものだろうといいます。もと京都岐阜屋世継八郎兵衛の所持、1833年(天保4)戸田宗潮が金千両で購求し、のち★平瀬亀之助を経て1903年(明治36)藤田蘆庵に移りました。 

 

●「江岑井戸」名物:古井戸茶碗 

江岑宗左の所持による銘です。枇杷色の釉の一部が青く窯変し、釉なだれ、火間もあって、釉調の変化が見所の一つです。内部に目痕が四つあり、高台内外にはかいらぎも現れ、畳付にも目痕があります。手強く、精悍な雰囲気をもつ一碗で、古井戸茶碗の代表作といえましょう。
《付属物》内箱-桐白木、書付江岑宗左筆、蓋裏書付啼啄斎宗左筆外箱-桐白木、書付戸田露吟筆 添状-了々斎宗左筆 

《伝来》表千家-山中了壽-松平周防守-★平瀬露香-戸田露吟-金沢村彦家-島徳蔵 

 

●柿の蔕茶碗/銘「毘沙門堂」重文 

「大津」と並んで柿の蔕の双璧といわれるもので、腰のきっかりと立った姿が手強いです。口縁の切回しの鋭いことも無類で、この茶碗の見所の一つです。釉がかりはきわめて薄く、肌合いざんぐりとして手取りは軽いです。素地の鉄釉が点々と熔けて、一層寂びの味わいをそえています。見込広く、目は四つあります。鋭い作行きや、釉がかりが異風なところなど、大寂びの趣はいよいよ深いです。もと山科の毘沙門堂に蔵されていたので、この銘があります。 

《伝来》毘沙門堂-★平瀬露香-金沢村彦家-畠山即翁 

《所蔵》畠山記念館 

 

●青井戸茶碗/銘「柴田」 

柴田勝家、★平瀬家、藤田家伝来、根津美術館蔵。重要文化財の風格、柴田井戸。一見地味に見えるこの小井戸、ひとつひとつ細部を見ていくとどれだけこの茶碗に非の打ち所がないかわかります。轆轤目が強く出て非常に均整の取れた形状、薄い琵琶色の内にうっすらと浮かび上がる青の色合い、主張しないながらも見事に具わった貫入とカイラギ、どれもが青井戸の理想というべき姿であります。柴田勝家が織田信長より拝領したと伝わる茶碗です。 

 

●青井戸茶碗/銘「浅香山」★平瀬家伝来 個人蔵 

 

●肩衝茶入/銘「松永」松永久秀、★平瀬露香、松永耳庵伝来 福岡市美術館蔵 

 

●源氏車香合★平瀬家伝来 

武者小路千家一啜斎好みの香合です。本歌は、直斎が考案し息子である一啜斎が写しました。微妙に車の螺鈿(螺鈿)が違う所は、自身好みの特徴を出した香合かと感じました🎵。大ぶりの藤実形で、車は螺鈿であらわし波は蒔絵です❗。 

 

●能之秘書 

https://nohken.ws.hosei.ac.jp/nohken_material/htmls/index/pages/cate4.html

全百十六曲を収める脇の型付。流儀は不明ながら、〈葵上〉の祈りで小袖を奪おうとするシテを後ろから打つ型を記すなど、古態の演出を伝え、書体からも慶長頃の写本と推定される。大阪の豪商で、金剛流の後援者として著名な★平瀬露香の旧蔵。露香の没後、未亡人が売りに出したのを、フランク・ホーレイが買い求めたもの。 

 

 

●祥瑞茶碗★平瀬露香旧蔵 

染付の発色も良く、縁紅もかかり、 土も祥瑞独特のゴマ土で引き締まったできのお茶碗です。とても丁寧に絵付が施され、 大きさも茶箱にも使えるやや小振りなサイズです。 高台内側に小さな窯キズはありますが、焼成時からのものでキズ・欠点ではありません。また、ご使用に際しましても問題ありません。 

●箱:平瀬露香旧蔵箱/箱蓋裏には平瀬露香翁の旧蔵印と売り立て時の判が捺されています。この売り立て時に捺された「集散不常願販同好」の判が当時評判になりました。 

※祥瑞:中国明末、崇禎年間(1628-44)に日本からの注文で江西省景徳鎮窯の民窯で製作されたと云われています。素地・釉・青料とも精選されたバイオレットブルーの染付磁器で茶碗、 水指、香合、火入、鉢、向付など茶道具、懐石道具が主体です。小堀遠州をめぐる茶家の需要によって注文、生産されたものと云われています。独特の細やかな幾何学文や花鳥文を組み合わせたものや中国絵画の一幅の図様を組み合わせた ものなどの祥瑞文様で飾られ、 これに類した作品は俗に祥瑞手と呼ばれて、大変人気を博した作品です。「五良大甫 呉祥瑞造」の銘のほかに「嘉靖年製」「角福」や無名のものがあります。 

 

●「天平裂」★平瀬露香秘蔵 

飛鳥・奈良時代(7~8世紀)より、伝世してきた染織遺品を「上代裂」とよんでいます。「上代裂」には、法隆寺に伝わってきた法隆寺裂と、正倉院に収蔵されている正倉院裂(天平裂)とがあり、その技法は、多種多様にわたり、その質の高さは、見る者を古代へ夢さそわずにはおきません。又、「名物裂」とは、鎌倉~江戸時代(13~19世紀)、茶道に親しむ人が愛用した裂地で、名物茶入を入れる仕覆(袋)や、書画の表装などに使ったのが名物裂の名の由来であるといわれています。 

 

《湯木美術館》 

541-0046大阪市中央区平野町3-3-9/06-6203-0188 

http://www.yuki-museum.or.jp/

●平成30年秋季展「不昧の茶道具と近代数寄者」 

http://www.yuki-museum.or.jp/exhibition/

●平成28年秋季特別展「茶道具と和歌」 

http://www.yuki-museum.or.jp/exhibition/archives/2016_autumn_sp.html

●平成24年秋季特別展「関西数寄者の茶道具」 

http://www.yuki-museum.or.jp/exhibition/archives/2012_autumn_sp.html

蕎麦茶碗 銘「夏月」★平瀬露香、乾豊彦伝来 

●平成22年秋季特別展「上方豪商の茶道具」 

http://www.yuki-museum.or.jp/exhibition/archives/2010_a.html

痴絶道冲墨跡★千草屋平瀬家 

癡絶道冲(1169~1250)は字を癡絶といい、俗姓は荀氏。武信(四川省)長江の人。はじめ官途を歩もうとしたが志を変え、密庵咸傑の法嗣である曹源道生の元に参禅し、その法を嗣いだ。嘉興(浙江省)の天寧寺、建康(江蘇省)の蒋山太平興国寺、福州(福建省)の雪峯山崇聖寺を経て、勅命により四明(浙江省)の天童寺に住し、阿育王寺も兼住した。のち杭州(浙江省)の霊隠寺に住し、呉興(浙江省)に法華寺を開き、また勅命により臨安(浙江省)の径山に住した。大慧宗杲および草堂和尚の真蹟を読み、それに対する跋を認めた一幅である。二大老の真蹟の一つは兄弟友愛の義を叙べ、もう一つは父子あい干(たが)うの心に篤い。ここに二大老の所説によって、父子兄弟の間における不伝の妙を論じて、もって世の警めとしたい、という。 

●伝源俊頼筆色紙「秋きぬと」★千草屋平瀬家 

秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる 

 

・・・湯木さんちには「平瀬家伝来」がいっぱいあるみたい、特集展示してほしいなあ。 

 

《耕三寺博物館》2010第58回館蔵品展「名家の道具」 

http://www.kousanji.or.jp/museum_history/

●古伊賀「擂座花入」(桃山時代)★平瀬家伝来  

●古銅「そろり花入」(江戸時代)★平瀬家伝来

 

・・・「平瀬家」は、世間一般にあまり知られてないみたいですが、なんのなんの「目利き」界では絶大なる地位と名声を馳せていることがよ~くわかりました。