浪華画学校(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「浪華画学校」について、最も詳しい資料「大阪文化史研究」が届きました。 

 

《大阪文化史研究》編:魚住惣五郎/星野書店1943 

★「浪華画学校の顛末」著:木村武夫(375~401)より 

またこの年七月森琴石等が発起となって浪華画学校(★東区道修町5丁目27番地)を中心とした画会、即ち「浪華学画会」なるものが設けられ、副会頭に前東区長★宮崎銕幹を仰ぎ樋口は幹事兼主計、琴石、五州、梅屋、耕沖が委員となっている。事務所を樋口邸に置き、十一月 絵画共進会 を開かんことを府庁に願出で併せて補助金の申請をしている。願書は浪華学画会第一回報告に載っているが、その中注目すべき箇所は、やがて別個の画学校設立を企てんとしている事である。時の知事西村捨三は補助金参百円を下付して好意を示した。かくて絵画共進会は廿三年九月一日より★大阪府立博物場に於て開催せられ、殊の外の盛会だった事は、★「日本美術協会」報告第三十三号に報ずるところである。一方別個の画学校設立の件は、廿三年五月廿二日大阪画学校開設に関する伺書の提出となり、廿五日教員上田耕冲、森琴石、学事評議員森關山、田能村小斎、中川蘆月、水原梅屋、助教★庭山耕園、近藤翠石と云う教員組織が決定し、校主は宮崎銕幹、場所は★東区横堀一丁目廿番屋敷と迄、その計画が進捗したが、実はその後の消息が今の私にとっては一切不明である。従ってこの大阪画学校と浪華画学校とは如何なる関係にあったかも、目下のところ明らかする事は出来ない。推測するに樋口はこの時難華畫学校をもこの新設校に合流せしめ、以てこれよりよき画学校建設を考えたのではなかったらうか。恐らく浪華画学校 の最盛期に於て、よりよき発展の為に企てられたこれ等の諸計画中に、実は浪華画学校の急速なる閉鎖をもたらした原因が存在したのではなかったらうか。本校がより公的なものにならんとした時、樋口個人の本校に対する熱情はそれだけ冷却して行ったのではなからうか。本校の閉鎖は明治廿五年頃と云う。この前後の消息を知る資料も今のところ私は知らない。

 

 

【魚住惣五郎】(1889~1959) 

日本史学者。兵庫県生。東大史学科卒。龍大・広島文理大・関西大学教授。とくに中世史に顕著な業績を挙げた。広島・西宮の市史編集委員長を務めるなど学会活動や地域史編纂に貢献。『古社寺の研究』等著書多数。

 

 

【木村武夫】(1910~1986) 

日本史学者、社会事業学者。栄照寺住職。京都市生まれ。別名・武応。1933年京都帝国大学文学部国史学科卒。大阪経済大学助教授、教授、龍谷大学教授、神戸女子大学教授、種智院大学教授。 

『続三足のわらじ―木村教授の横顔―』編者:朝枝善照/刊行:浄土真宗本願寺派栄当山「栄照寺」1986 

536-0003大阪市城東区今福南1-5-21/06-6931-7817 

歴史学、社会福祉学、大学づくりで功績を残された学者であり、浄土真宗の寺の住職でもある木村武夫先生の、喜寿(77歳)を記念して寄せられた随筆集。

 

 

・・・「大阪市東区道修町5丁目27番地/樋口」で検索していると、 

 

《大阪ハリストス正教会の沿革》 

http://www.orthodox-jp.com/osaka/history/history.html

江戸時代末期(1862)、函館のロシア領事館付き司祭として来日したニコライ(「亜使徒大主教聖ニコライ」として聖人の列に加えられた)が正教を伝道した。明治5(1872)年キリスト教解禁とともに東京へ拠点を移し、日本全国への宣教を開始した。 

●「大阪での伝道/第Ⅰ期・元「三橋楼」会堂時代(明治11~42)31年間」 

大阪に正教会が伝道されたのは、明治7(1876)年もしくは8(1875)年の頃とされている。明治11(1878)年、イアコフ高屋神父が大阪の最初の管轄司祭となる直前、西日本を巡回していた掌院アナトリイ・チハイ神父が35名を洗礼した(内2名は帰正)。これが大阪教会の始まりである。最初、パンテレイモン会と称され、淀屋橋東にあった増井家宅を講義所としていたが、明治12(1879)年には東区道修町5丁目★樋口家にて「復活会」として集会を行った。その後、明治15(1882)年に、アナトリイ神父が、東区石町1丁目の603坪の土地と建物を購入。これが有名な三橋楼であった。三橋楼とは、天満橋、難波橋、天神橋という三つの大きな橋を眺望できるために名付けられたという料亭旅館で、明治維新前には、関西、中国、四国、九州の諸大名が参勤交代の折りに宿泊していた旅館だった。また明治8年に★「大阪会議」(大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが今後の政府の方針を協議した会議)が開かれた場所の一つとしても有名である。なぜ三橋楼を正教会が買い取ったか、その経緯はわからない。元三橋楼は、会堂・集会所に使われただけでなく、しばらくは伝道学校としても使用され、ここを卒業してから東京の神学校に入学した人たちもたくさんいた。なお、現在、吹田の教会の境内にある★庭石は三橋楼時代の遺物である。

 

 

《三橋楼》 

540-0033 大阪市中央区石町1-1-11/06-6942-4800天満橋ニュースカイハイツ 

この場所には、江戸期から明治期にかけて「三橋楼」という料亭があった。高台にあったため「天神橋」「天満橋」「難波橋」★三つの橋を眺望することができたところから三橋楼と名づけられた。元治元年(1864)11月16日、新選組隊長 近藤勇の名による献金依頼文書を、加賀屋徳兵衛が三橋楼に出向いて受け取っている。勤王派、佐幕派の武士をはじめ町人たちが利用したと思われる。慶応4年(1868)4月、大久保利通が明治天皇に謁見したことを祝うため、大久保は小松帯刀、木場伝内、本田親雄、税所篤を招き、三橋楼で祝宴をあげている。最も有名なのは、明治7年(1874)~8年(1875)にかけ、大阪で繰り広げられた★「大阪会議」の開催地のうちのひとつだったことである。明治6年の政変後、大久保利通が政治の実権を握ったものの、不平士族の勢いが強まるばかりで、大久保が困り果てていた。そのような時期、井上馨、伊藤博文が、大久保利通に働きかけ、下野した木戸孝允の政界復帰の画策を行った。木戸孝允、板垣退助、大久保利通が大阪で話し合いを行い、政界立て直しを目的で話し合いが数回行われた。明治8年(1875)1月8日、木戸の宿泊先★「加賀伊」(花外楼)に大久保が来訪。同伴にて「三橋楼」に場所を変え、10時間以上に及ぶ対談を行った。途中、黒田清隆が「三橋楼」に来訪。黒田は泥酔により両者の話をぶち壊してしまい、木戸は激怒し破談かと思われた(『osayanのブログ』2013年11月11日より)。※三つの橋は、東から京橋、天満橋、天神橋との説もあります。木戸孝允の働きかけにより、明治8年1月26日、「三橋楼」において「囲碁会」が開催された。昼の1時に参集し、夜の11時に散会したと木戸の日記にある。参集したのは大久保利通、五代友厚、税所篤(堺県知事)、内海忠勝(大阪府参事)、渡邊昇(大阪府知事)父子、伊藤博文、井上馨、中野梧一、鳥尾小弥太、山尾庸三などである。翌月の2月11日、花外楼において木戸の政界復帰が決まったのは周知のとおりである(。『東横堀水辺新聞vol.11』文:長谷吉治2011年9月より)。 

 

 

《参考》「大阪ハリストス正教会」 

 564-0073吹田市山手町1-8-15/06-6388-4512 

http://www.orthodox-jp.com/osaka/index.html

 

・・・「花外楼」だけでなく「三橋楼」でも「大阪会議」が開かれたんですね。 

 

《懐徳堂研究第1号「ニコライ堂の女性たち」》文:三谷拓也  

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/search/200170030506/?lang=0&cate_schema=3000&mode=0&disp=back&codeno=journal

木村武夫「浪華畫學校の顚末」(魚住惣五郎編『大阪文化史研究』、星野書店、一九四三年、三七五~四〇一頁)によれば、明治一七年頃、同じ道修町五丁目二七番地に、樋口三郎兵衛(一八六三~一九三三)が「浪華畫學校」を開設している。樋口家は道修町の旧家で、三郎兵衛は他家から養子に入った人だが、明治一三年頃には魁新聞社や樋口銀行の開設にも関わるほどの資産家であった。なお、この樋口三郎兵衛は、明治六年から明治一二年まで小学校の教員を務めており、時期的には木菟麿の教員時代とほぼ重なる。ただし、この「浪華畫學校の顚末」には、三郎兵衛の宗旨や信仰には触れられておらず、この「樋口宅」が三郎兵衛のものであったかどうかは★未だ確言できない。  

 

・・・樋口銀行で検索していると、 

 

《大林組80年史/第二節「当時の大阪と建設業界」》より 

https://www.obayashi.co.jp/chronicle/80yrs/t1c1s2.html

明治十年(一八七七)西南戦争が勃発し、兵站基地がおかれると、大阪は軍需ブームにわいた。藤田伝三郎、松本重太郎らはこれで巨富を突き、財界に確固たる地位を占めることができたが、一方、戦後のデフレ政策で、倒産したものも多かった。明治十六年(一八八三)ごろは不況がはなはだしく、翌十七年には★樋口、丸三など四銀行が閉店した。大阪がそれまでの商業都市的性格から、工業都市を指向したのはこの時期である。政府も、当時実情を視察した大蔵省権大書記官河島醇の進言にもとづき、この政策を推進した

 

・・・樋口三郎兵衛さんについては、まだまだ研究調査しなければならないですね。