《NEWS》2018.7.17朝日新聞デジタルより
彫刻家の流政之さん死去 サムライ・アーティストと評価
http://www.nagaremasayuki.com/
米ニューヨークの世界貿易センタービルにあった「雲の砦」などの作品で知られる彫刻家の流政之さんが7月7日、老衰で死去した。95歳だった。故人の遺志で葬儀は行わない。香典や供花は遺族の希望で辞退している。長崎市生まれ。零戦のパイロットとして終戦を迎え、独学で彫刻を学んだ後、62年に渡米。600トンの石を使った巨大な壁画「ストーンクレージー」などの作品を手がけ、「サムライ・アーティスト」として注目を集めた。75年に帰国し、★高松市庵治町に設けた工房を主な拠点として、制作活動を続けていた。三味線のバチのような形の「ナガレバチ」や、人間の胴体部分が空洞になった「サキモリ」などの代表シリーズがあり、大阪・梅田の阪急三番街、神戸のメリケンパークなど、各地に作品が残る。日本建築学会賞や日本芸術大賞、中原悌二郎賞、吉田五十八賞などを受賞。日本アカデミー賞のトロフィーのデザインも手がけた。長女で画家★麻二果さんは17日、「アーティストとして生きるということを、その全てを以って教えてくれた父でした。これからも変わらず父の作品は生き続けます。世界に、日本の各地に存在する★作品を愛でてくださることが父の遺した願いです」などとするコメントを発表した。
「少年時代、親父から古流武道を習わされた。武道には『受けてたつ』という武士道の思想がある。これも自分からは攻撃をしない。私が高松にいるのも、受けてたつ、の考えからだ。彫刻家として攻撃的に生きるなら、東京のような大都市に住めばいいんだ。攻撃の美学は好きになれないね。日本が再び武力の問題を考えるのなら、守ること、受けてたつことに、きっちりけじめをつけておかないといけない。そうしないと、また戦争することになる」
・・・ということで「作品を愛でる」ことをもって、追悼の意を表したいと思います。私が最も好きな作品は、1973★「とおりゃんせ」です。
《北浜 NEXU BUILD》(旧:大阪大林ビルディング)
541-0031大阪市中央区北浜東4丁目33番
大林組本店として建設された西日本初の超高層ビル。天神橋の南側、天神橋筋/松屋町筋と土佐堀通の交差点角に立っている。 日本で初めて2階建(ダブルデッキ)エレベーターを採用するなど当時の先端技術を結集したことが評価され、日本建築学会賞、BCS賞をはじめ多数の賞を受賞した。大林組はビル完成後、大正5年から本店を構えていた土佐堀通り向かいの建物(現ル・ポンドシェルビル)から移転。以降、同社拠点として活用した。2006年のビル売却後はテナントとして入居していたが、2013年4月、中之島に完成した超高層ビル、ダイビル本館に大阪本店を移した。メインテナントはJCB大阪支社。2014年1月、ビル名称が北浜 NEXU BUILD(北浜ネクスビルディング)に変更された。
・・・流さんが亡くなり、なぜ「とおりゃんせ」なんだろうと考えてみたところ、なるほど「天神さま」への通り道だ、と今になって気付きました。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
★天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
【流政之】(1923~2018)
1923年長崎県に生まれ、幼少時代は東京で過ごす。父親は政治家で立命館大学創設者★中川小十郎で、中川が57歳のときに生まれた。1936年京都に移り、1942年立命館大学法文学部へ進学。その後中退し、海軍予備学生出身の零戦搭乗員として終戦を迎える。その後、世界各地を放浪、独学で彫刻を学び現在に至る。1964年にニューヨーク世界博覧会で壁画「ストーンクレージー」(日本から2500個、600tの石を運んだ。)を展示し話題を呼ぶ。1975年には、ニューヨーク世界貿易センターのシンボルとして約250トンの巨大彫刻★『雲の砦』をつくり国際的評価を得る。また、作品『受』はニューヨーク近代美術館の永久保存作品(パーマネントコレクション)として収蔵されており、彼の国際的評価の高さを裏付けている。1967年には、TIMEが選ぶ日本を代表する文化人の一人に選ばれた。彫刻家として活躍するかたわら、庭園の作品も残す。代表作に東京天理教館庭園、皆生温泉東光園庭園などがある。1987年に日本経済新聞「私の履歴書」に自伝を掲載する。最近の作品に、関西学院大学理学部(現理工学部)の兵庫県三田市への移転を記念して制作された『月わたり』(2001年、黒御影石)、立命館慶祥中学校・同高等学校に寄贈された『NANDABE』(2004年)などがある。2005年11月8日、JapanStoneFairにおいて「こころわけ」を発表。2013年、高松市郊外の★庵治半島の北端近くにアトリエを構え住む。2018年7月7日、老衰のため死去。
・・・私の自宅(羽曳野市)から一番近い場所にあるのが、1993「やったろか」です。
《近鉄南大阪線「河内松原駅」》
580-0016松原市上田三丁目5-1/072-331-1111
http://www.youmenity.com/index.html
昭和46年10月河内松原駅前南地区整備計画作業着手
昭和55年8月都市計画決定
昭和56年1月住宅・都市整備公団参加組合員決定
昭和61年12月施設建築物等管理会社松原都市開発㈱設立/事業認可申請
昭和62年2月河内松原駅前南地区市街地再開発組合設立
平成4年9月ビルの愛称「ゆめニティまつばら」に決定
1993年(平成5)7月24日★橋上駅舎化。橋上化以前は南北に駅舎があり、ホームへは駅西側の構内踏切を通っていた。
平成5色年7月★「ゆめニティまつばら」竣工、オープン
平成6年8月河内松原駅前南地区市街地再開発組合解散
2009年(平成21)3月20日大阪阿部野橋駅構内工事に伴い、営業距離が0.1km短縮された(10.1km→10.0km)ことで当駅から大阪阿部野橋までの運賃が290円から250円に値下げ。
平成23年10月全面リニューアル。近鉄プラザ(近商ストア直轄の専門店)という名称がなくなり、ほとんどの店舗管理を松原都市開発㈱が引き継ぐ。現在1階KFCと地階専門店のみ株式会社近鉄リテーリングが管理。
・・・さて「やったろか」の意味は不明ですが、流さんが松原市のことを良く知っておられたとは考え難く、ようするに依頼されて「やったろか」と引き受けられた?のではないかと思うわけです。
《参考》Self-efficacy
和訳で自己効力感.ある行動や課題を達成できるという自己に対する信念または自信のこと。カナダの心理学者 Albert Bandura(1925~)によって提唱された心理学用語です。人は皆、与えられた課題や自ら設定した目標に対して何かしらの行動を起こそうとするとき、「その行動を自分はどの程度うまく行えそうか」という予測ができないと、最初の一歩を踏み出せないものですが、そのために必要なのが「よし★いっちょうやったろか!」という自己効力感なのです。
・・この混迷の時代にあって、とても重要なSelf-efficacyです。父・中川小十郎さんもスゴイ人ですが、娘・麻二果さんも素敵です。
【流麻二果】
1975 生まれ
1997 女子美術大学芸術学部絵画科洋画専攻卒
2001 トーキョーワンダーウォール審査員長賞
2002 文化庁新進芸術家在外研修員(NY滞在)
Frank Stella スタジオインターン
2004 ポーラ美術振興財団在外研修員(NY・トルコ滞在)
2013 学習院女子大学客員研究員(アーティストインレジデンス)
色とりどりの絵具をキャンバスへ幾重にも重ねて生まれる、幻想風景のような世界。「油絵」という言葉から連想されがちな重たいイメージからは遠く離れ、軽やかで透明感あふれる色彩の妙が、流麻二果さんの持ち味だ。一見すると美麗な抽象画のようだが、実は着想の源は「ひと」だという。「たまたま電車で隣に座ったり、街角で休憩していたりする見知らぬ人たちが、絵を描く源になっています。私にとっては他人である彼らが、どんな日々を送っているのかという想像、またそこで感じた“空気”のような何か。自分の中でストックのように貯まっていくそれらが、個々の絵に反映されています」もともと人間観察が好きで、外見から察することができる背景などが、自分と距離のありそうな人のほうが気になるという。その筆が描く重なりあう色の世界は、見る角度や光の具合でニュアンスを変え、より見えてくる部分、逆に見えなくなる部分も。流さんはそれを「わかりきらない面白さ」と説明するが、彼女が人間そのものに抱く想いでもあるのだろう。かつては具象的な人の姿も描いたが、やがて今のスタイルが主となっていった。人間観察への興味は、遡れば「いわゆる“勤め人”がまわりにいない環境」で育ったこととも関係していそうだ。「父は彫刻家(著名作家の流政之さん)、母は演劇関係の仕事をしていて、そうした環境は豊かな刺激をくれたと思います。一方で、学校に通いだしたころから、どうも自分の家はみんなとはちょっと違うらしい、と感じはじめました。そこから心配と興味が半々という感じで(笑)、“ほかのひと”への関心が強くなった気がします」たとえば旅に出るにしても、美食や絶景より、誰かに会いに行くのが一番の目的になるという。ただ、距離が縮まった人々は自然と“観察の対象”からは外れていくというから、人付き合い上はバランスがとれている? 「人間観察が趣味なんて言うと警戒されてしまいそうですが、こういう形で作品として昇華できるようになって良かったと思っています」と流さんは微笑む。