石棺(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・羽曳野市内で、劇的に変化した場所があります。以前「東高野街道」の案内板設置で登場した「不動坂」、驚いているのは、私だけではないはずです。 

 

《参考》「古市古墳群白鳥陵地区の神社と寺院」 

/文:阪南大学国際観光学科・今成友美  

★石不動 と姥不動明王  

いずれも羽曳野市古市5丁目にある。古市の町から東高野街道を南下し、大乗川に架かる「高屋橋」を渡ると、近鉄南大阪線の踏切から南へは上り坂となる。この坂は「不動坂」と呼ばれ、★高屋城「搦手」であった。踏切を渡ると、不動坂の自動車道とは別に、西側高台の住宅地に登る細い歩道があり、それをのぼり切ったところに近代的な祠が建てられている。中には「弘法大師不動明王」と刻まれた石碑と弘法大師像が祀られ、横手にある小さな木造の祠には線刻の不動明王像が祀られている。『羽曳野市史』(第7巻、171頁)には、「不動坂西側の小高いところに、通称『石不動』を祭った小堂がある。石不動とは、現高1.35mの安山岩の自然石に浅く線彫りした不動明王立像で、体部の輪郭はやや幅広く彫りくぼめる。像高約0.8m。体部の周囲には火炎が渦巻き、両眼見開いた忿怒相で、頭部は巻髪で頂蓮を載せる。右手に剣を持ち、左手には羂索を下げる。像の左右に梵字を二字ずつ添え、向って左側に『□□二二年正月十一日』と刻む。室町末期ごろの製作と考えられるが、風化が甚だしいのが惜しまれる。」とあるが、祠の格子戸から覗き込むと、はっきりと不動明王の姿を確認することができる。『羽曳野市史』には記載が見えないが、安閑天皇陵の南、東高野街道に面して通称「姥不動明王」が祀られ、その顕彰碑に、「移築の現姥不動明王は嘗ての居城唯一の守護神で歴代城主の慰霊の祖神として奉祀せる本街道の道祖神として今尚香煙絶ゆる事なき歴然たを縁起とす。依つて爰に既述著名の城跡と関連併記せしものにして往来頻繁の本街道を来する老若男女の来拝萬徳の道祖たらしめんとするにあり。因に本碑文は地元旧家森家秘蔵の文献より抜粋せるものなり。」と刻まれる。祠は大小2棟が並び、小さな祠に「不動明王」と刻まれた石碑が収められている。大きな祠には頭のやや尖った自然石が祀れているが不動明王の像が刻まれているのかどうかは、肉眼では確認できなかった。 

※「搦手(からめて)」城やとりでの裏門。陣地などの後ろ側のこと。 

★高屋神社 

羽曳野市古市6丁目に鎮座する。★高屋城三の丸の西北隅に当たり、東高野街道に接する。『延喜式』「神名帳」に列せられた式内社で、広国押武金日命(安閑天皇)を祭神とすることから、拝殿の前に立つ鳥居は皇族の象徴である神明鳥居になっている。もう一柱の祭神である饒速日命は物部氏の祖先神である。当地を支配した高屋連が物部氏の一派であることから、彼らが氏神として祀ったのだろう。社伝によると宣化天皇3年(538)勅命によってこの地に創建されたものと伝えられ、明治時代末期から大正時代にかけて行われた神社合祀によって古市の白鳥神社へ移されたが、戦後の昭和29年(1954)に氏子たちの希望により、再び高屋台地に戻された。「高屋神社址」の碑が今も境内にある。本殿は銅板葺屋根のかかる一間社流造りである。

 

 

《参考》松原市「若林の陣跡と若林神社」より 

http://www.city.matsubara.osaka.jp/index.cfm/10,83,51,262,html

●河内守護の畠山氏と将軍家・戦国群雄の攻防 

室町時代の河内国は、将軍家の足利氏一族である畠山氏が守護となり、軍事・行政機関を支配していました。この、畠山氏の後継者争いから、京都で応仁の乱(1469~77)が起こったことはよく知られています。文明9年(1477)、西軍の畠山義就は‐京都を出て河内に向かいました。ここに、応仁の乱は一応終結します。しかし、義就が河内にとどまることは、京都に残る将軍足利義材や東軍の畠山政長との間で、激戦が河内で起こることを意味していました。やがて義就は死去し、息子の基家がその跡をつぐや、明応2年(1493)2月、義材や政長は京都を出て基家を討つため、河内国★「正覚寺」(大阪市平野区)に陣をおきました。基家は古市(羽曳野市)★「高屋城」におり、そこが河内支配の拠点でした。このため、「正覚寺」と「高屋城」の中間地の本市域は重要拠点となり、とくに「若林」は前線基地となりました。明応2年3月2日「高屋城」攻めの畠山播磨守に率いられた数千の軍勢が「若林」に布陣したと『蔭涼軒日録』にあります。この時、市内では三宅にも500の軍勢が配置されていました。この明応の合戦後、政長の息子の畠山尚順が「高屋城」を奪い、やがて基家は自害します。その後、両畠山氏はいったん和睦しますが、大永7年(1527)、基家の孫の畠山義尭が幕府の実力者であった細川晴元とともに挙兵し、畿内は再び混乱におちいりました。『細川両家記』によると、天文16年(1547)8月、尚順の跡を継いだ息子の畠山政国を「高屋城」に攻撃するため、晴元方の三好長慶の軍勢が摂津から河内へ討ち入り、ここでも「若林」に陣を取っています(「歴史ウォーク」44)。 

http://www.city.matsubara.osaka.jp/index.cfm/10,84,51,262,html

この年は合戦で明け暮れましたが、翌17年になって三好・畠山両軍は和睦し、若林の陣も解かれるのです。永禄3年(1560)7月にも、三好長慶らの軍勢は、政国の後、高屋城主となった畠山高政を討つため、守口から玉櫛・若江(以上、東大阪市)に攻め寄せ、ついで太田(八尾市)・「若林」を経て、藤井寺に陣取りました。このように、「若林」は中世史書に戦場として登場しますが、同地では若林1丁目に鎮座する若林神社が微高地の最高所にあたります。江戸時代前半、延宝年間の「若林村絵図」に、同社は八幡宮とあり、今とは比べられないほど広大な境内地が森で囲まれています。同地が小字「若林」であるうえ、鎮守の森が陣取場になりやすいことから、神社付近が戦略拠点にふさわしい場所だったのでしょう。 

 

・・・この解説にとうじょうする「正覚寺(平野)」「高屋城(羽曳野)」その中間点にある「若林(松原)」すべてが、私に関係ある場所なのでおもしろい。

 

 

《城不動坂古墳》羽曳野市古市5丁目  

https://www.city.habikino.lg.jp/soshiki/shougaigakushu/bunkazaihogoka/bunkazai/iseki_shokai/kofun_koki/2387.html

平成20年に高屋城北限の★土塁の下から発見された古墳で、★安閑陵古墳の北東約50メートルに位置しています。古墳は高屋城築城に際して大きく破壊されていましたが、横穴式石室を内部主体にもつ全長約36メートルの前方後円墳であることがわかりました。石室規模は、玄室長4.2メートル、玄室幅1.6メートル、羨道長4.8メートル、羨道幅0.9メートルを測ります。石室内からは、土師器壷、須恵器器台・高杯・提瓶・甕などが出土しました。さらに★「組合式家形石棺」が納められていたこともわかりましたが、そのほとんどはすでに大きく破壊されていました。また周溝からは、埴輪や須恵器が出土し、なかでも盾持人物埴輪と呼ばれる珍しい埴輪が発見されました。出土した遺物から6世紀中頃に築造されたことがわかり、古市古墳群においてもっとも新しい前方後円墳となりました。

 

 

《棺の歴史について 》「お葬式ライブラリー」より 

https://tokyosougi.jp/seniortimes/post-554/

石棺には組み合わせて作られているものと、くり抜いて作られているものがあります。くり抜き式石棺は、十分に加工されていますが、組み合わせて作られたものには十分に石材を加工したものと、単に板状の石材を組み合わせて作ったものの2種類があります。後者のものを箱式棺あるいは箱式石棺と呼ばれ、十分に石材加工された石棺と区別されています。石棺には大きく分けて、5種類があります。・箱式石棺・割竹石棺・舟形石棺・長持形石棺★家形石棺、これらにさまざまな特徴があります。 

 

《家形石棺について》藤井寺市「コラム古墳のある街」より 

http://www.city.fujiidera.lg.jp/kanko/kofun/furuichikofungunnoshoukai/koramu/1459337642822.html

家形石棺は、蓋部が屋根形を成しており、普通内側にも刳り込みがあります。蓋には縄掛け突起と呼ばれる方形の突起が認められ、古いものでは上方に伸びていますが、新しくなると下方に下がる傾向にあります。蓋天井部の平坦面は、時期が新しくなるにつれて広くなる傾向にあります。石質は主に播磨の竜山石のもの、二上山の凝灰岩のものがあります。使用された古墳は主に後期の横穴式石室ですが、長持山古墳や唐櫃山古墳の石棺が、舟形石棺ではなく、この石棺の初現であるという説にしたがうと、5世紀末までその出現がさかのぼるということになります。付近では河南町の史跡金山古墳の横穴式石室に2基の凝灰岩刳抜式家形石棺が納められています。

 

 

・・・「こんもり」というより「放置」され荒れに荒れていた土塁上の木々が、すっかり奇麗に伐採され「不動坂」が明るくなりました。「二上山」も良く見えています。

 

《参考》藤井寺市「コラム古墳のある街」より 

長持形石棺のことについてお話したいと思います。形の特徴は初めの津堂城山古墳の石棺のところで詳しく述べたとおりで、石材には組み合わすための溝、または段を作るものが多くみられます。石材の種類は現在わかる畿内の資料でみますと、兵庫県加古川流域から産することが知られている「竜山石」という凝灰岩を用いることが多いことがあげられます。発掘調査によって確認されたものはありませんが、この石棺のモデルである木棺、長持形木棺と呼べるものがあった可能性が考えられます。
小口部に認められる方形突起はこの木棺の木板に貫通した方形の穴に木栓を挿入した形態に近いことが指摘されています。長持形石棺の初現を示す資料としては、隣市の柏原市国分にある松岳山古墳の組合せ式石棺があげられます。蓋石が蒲鉾形をしていないこと、小口部の方形突起が認められないことをのぞけば典型的な長持形石棺の構造そのものです。(中略)藤井寺市付近ではほかに、出土地が明確ではありませんが、羽曳野市誉田八幡宮所在の長持形石棺があります。また、実見できませんが、羽曳野市と藤井寺市の境にある墓山墳後円部にあるというもの、堺市大仙古墳(伝仁徳陵)前方部に埋まっているものがあり、どれも巨大古墳にかかわるものと考えられます。最後に長持形石棺についての興味深い説を紹介します。それは★倉敷考古館・間壁夫妻が発表されたもので、この石棺の分布は王権を象徴するというよりも、★「葛城氏」との深いかかわりをもつもの(大王を含む)のみ使用が許された、一種の身分を表す葬法ではないかと述べられています。教育広報『萌芽』第11号:平成7年7月号より 

 

・・・「葛城氏」が登場してきて、ますます興味がわいてきました。

 

 

《参考》 

●『日本史の謎・石宝殿 』『石宝殿―古代史の謎を解く』 

著★間壁忠彦、間壁葭子/1978六興出版、1996神戸新聞総合出版センター  

兵庫県の高砂市生石神社御神体である謎の石造品・石宝殿。考古学辞典にも百科事典にも出ていない宝殿という語。古墳時代の石棺の石材産地・形態の変化を緻密に洗い出すことで、その謎がひとつずつ解明される。 

●『石棺から古墳時代を考える』―型と材質が表す勢力分布― 

著★間壁忠彦/1994同朋舎出版 

もの言わぬ石が何を語るのか。石棺の石材の産出地とその移動から当時の権力の様子を解明する。石棺調査の集成がこの一冊に収められた。石棺から古墳時代を考える。考古学ファン必見の興味深い一冊。 

《阿蘇の石による舟形石棺が搬出されて瀬戸内海沿岸と畿内の古墳で使用された例は、瀬戸内海沿岸や畿内でどの例も重要な位置を占める古墳であるから、それぞれに、わざわざ遠路を運ばれたことに意味をもっているに違いない。それを具体的に明らかにできるとは思われないが、どの石棺の主も九州と深いかかわりをもったものであることは、まず確かであろう。それも、阿蘇の石による舟形石棺が九州で広範に分布している中でも、主に有明海岸地域と石棺形態の上で関係するようである。(中略)古墳前記の時期に、はるばる遠くから石棺が運ばれてきていた播磨御津町は、瀬戸内海航路の要衝の地を占めており、山城八幡茶臼山古墳は、瀬戸内海の東端から淀川をのぼった河川交通の拠点というべき場所にある。それらの石棺が水運によって九州と強く結ばれていた地域首長のためのものであったと推測することは、まず許されるであろう。実際の年代を四世紀末とするか五世紀初頭とするかは別にして、畿内地方の古墳築造が最大規模のものをめざし始めた頃、その海運力が西へ向かって九州はもとより玄界灘をも越えて大きく発展した時代のことである。同じ頃、九州の有明海岸の勢力も広く海上交通へ意欲を燃やしていたと思われる。そうした頃、九州、瀬戸内海沿岸、畿内の海運力の拠点が、相互に結合していた状況を示す物的証拠を、阿蘇の石の舟形石棺にとどめていると考えてよかろう。文字で書き残された記録がない時代に、腐朽する種類の物質資料は失われてしまい、石棺のみがひそかに、そのあたりの事情を語りかけていたのであった。》 

 

・・・たかが「石棺」されど「石棺」、またまた読みたい本が増えて、こまってしまいます。