鉄(4) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「鳳翔館」の近くにあるブティック、 

 

《INVECTIVE》 

堺市堺区 綾之町西1-1-1/072-228-5334 

http://sakainoma.jp/spot/invective/

https://www.facebook.com/INVECTIVEclothing/

https://ameblo.jp/invective-clothing

 

 

2013年、大阪・堺を拠点に生まれたファッションブランドINVECTIVE。堺生まれのブランドとして、シンボルマークは堺を象徴する一つである古墳(前方後円墳)をベースにしている。商品展開は、シンボルマークを使ったアイテムの他、日本・世界の歴史、音楽、アートからインスピレーションを受け、流行に流されないデザインを展開している。★古墳をシンボルマークにしていると言っても、普段よく見る鍵穴のような古墳のシルエットとは上下が逆さま。その理由には、「前方後円墳」という名称を正しく見るとそうなるのではということと、もう一つ理由が。ヒントは★「マナの壷」。このブランドの世界感が垣間みれると同時に、きっと新しい視点も得られるはず。ちなみに「INVECTIVE(インベクティブ)」とは「毒舌」という意味。そのネーミングからもわかるように、彼らが展開するプロダクトやセレクトもよい意味でシニカルでエッジの効いたものが多い。少し違った視点でファッションも堺も楽しむことのできるショップ。堺に来たお土産とともに、お土産話としてもどうぞ。

 

 

《参考》「マナの壷」 

イスラエルにも三種の神器がある。「出エジプト記」には、イスラエル人(ユダヤ人)がエジプトから脱出する時の話が書かれています。神との約束の地「カナン」に辿りつくまで、イスラエル人たちはシナイ半島を40年間さまようわけですが、イスラエルの三種の神器は、その間にモーセが作らせたものです。まず、モーセの兄にアロンという人物がいましたが、このアロンが持っていた「杖」が三種の神器の一つです。「出エジプト記」には、「アロンの杖」がエジプトで、いくつもの災いを起こす様子が描かれています。例えば、蛇に姿を変えたり、水を血に変えたり、疫病を流行らせたり、雹を降らせたりなど・・・これは、モーセ率いるユダヤ人と対立したエジプト王に対する反抗で、モーセと兄アロンがエジプト王とエジプトの国力を弱体化さるために行ったことです。この「出エジプト記」で最も有名なのが、ユダヤ人がエジプトを脱出する時に、モーセが「アロンの杖」を持って、神に祈ると、海が真っ二つに割れ、道ができ、そこをユダヤ人たちが渡って脱出するという話です。しかも、それを追ってきたエジプト軍を海に飲み込んだのです。その過程でアロンの杖にはアーモンドのツルが巻きつきますが、日本の三種の神器の一つ「草薙の剣」にも草のツルが巻きつきます。「杖」と「剣」の違いはあるものの、ツルが巻きつくという意味では両者は非常によく似ています。 

モーセは「マナ」というウエハースに似た食べ物を記念に残そうと、黄金の壺を作らせましたが、その壺の名前が「マナの壺」です。このマナの壺のシルエットを逆さにすると、天皇陵である「前方後円墳」に似ているということで、いろいろな説が考えられています。 

 

・・・そろそろ「古市古墳群」の方も調べてみましょう。

 

 

《「広報ふじいでら」》第329号1996年10月号より 

http://www.city.fujiidera.lg.jp/rekishikanko/kodaikaranomesseji/index.html

日本列島に鉄器が現れるのは、よく知られるように弥生時代になってからです。それから古墳時代前期にかけて特徴的な鉄製品に「板状鉄斧」あるいは「短冊形鉄斧」と呼ばれる道具があります。朝鮮半島で鉄素材として作られたものを輸入してそのまま樹木の伐採などに使用していたのでしょう。ところが朝鮮半島では、釜山の福泉洞(ポクチョンドン)古墳群などで明らかになったように、4世紀の中ごろに★「鉄てい」という両端が幅広になった長方形の鉄板が出現します。この鉄ていはいろいろな鉄製品を作る素材で、4世紀末には日本にも輸入されています。徳島大学の東潮さんは、日本にもたらされた鉄ていの多くは、朝鮮半島南部で作られたと推定されています。5世紀になると古墳の副葬品にも鍛冶の道具が現れ、以降、鉄鍛冶生産が発展することが知られています。ときを前後して、須恵器の生産が開始されます。これらのいわば★産業革命の背後には、朝鮮半島からの技術者集団の渡来があったことは間違いないところでしょう。5世紀後半に築造された史跡野中古墳からは、加羅系の陶質土器、鉄てい、それから高度な鍛冶技術を要する甲冑などが出土しています。これらは、日本における鉄生産と流入経路の実態をうかがう重要な資料となっています。最近、韓国の池山洞(チサンドン)32号墳から日本製と考えられる鉄製よろい(横矧板鋲留式短甲)が出土して注目されています。5世紀後半には、日本の鉄製品を逆輸入するほどに鍛冶技術が向上したことを知ることができるのです。朝鮮半島の忠清北道の石張里(ソクチャンニ)では、精錬炉、溶解炉、鍛冶炉を備えたいわば製鉄コンビナートのような遺跡が見つかっています。これらの炉は4世紀には稼働していたと推定されています。一方、日本ではどうでしょう。今のところ6世紀後半をさかのぼる製鉄一貫工場の遺跡は見つかっていません。日本における製鉄の歴史は、弥生時代にまでさかのぼるという説もありますが、現在の具体的な資料からは、古墳時代も終わりに近づいたころにようやく本格化したとなるのですが、確定したとはまだまだいえないのです。

 

 

《呪術から軍事へ》大阪大学考古学研究室HPより 

http://kofun-ina-r.extrem.ne.jp/

4世紀になると、中国では政治的な混乱が起き、中国との交渉の窓口であった朝鮮半島北方もその混乱に巻き込まれていきます。中国王朝との関係をうしなった日本列島の有力者は、朝鮮半島の南の方にいた勢力との関係を重視し始めます。そして5世紀には、朝鮮半島から安定的に鉄を入手し、かつてないほど大量の武器・武具を生産し始めました。これが「古墳時代中期」と呼ばれる時期で、あわせて、それまで大型古墳が密集していた奈良盆地ではなく、大阪平野に★巨大な前方後円墳が築かれるようになります。大阪府★百舌鳥・古市古墳群からは、膨大な量の鉄製武器・武具や、鉄鋌(鉄素材を一定の大きさ・重さにそろえたもの)などが発見されています。かつて大阪大学が調査した大阪府★野中古墳からは、10領以上の甲冑や、150本以上の刀剣、700本以上の鏃が出土しており、当時の副葬品のありかたがよくわかります。

 

 

《野中古墳》 

http://www.let.osaka-u.ac.jp/kouko/nonaka/about/index.html

藤井寺市野中3丁目に所在する野中古墳は、2010年に世界遺産暫定リストに記載された百舌鳥・古市古墳群のうち、古市古墳群のほぼ中央に位置する5世紀の古墳です。この古墳は墳丘長225メートルを誇る墓山古墳に近接して築造された一辺37メートルの小さな方墳です。住宅街の中にあり、「うらやぶ」と呼ばれていた野中古墳は、実は発掘調査がなされるまでは、はたして古墳かどうかさえ、よくわかっていませんでした。しかし、1964年、大阪大学文学部国史研究室によって実施された発掘調査によって、この小さな古墳には、当時の政治社会や対外交流を知るうえで、貴重な手がかりを有することが判明しました。その成果は、『河内野中古墳の研究』(大阪大学文学部国史研究室、1976年刊行)にまとめられています。 

 

《教育広報「萌芽」》第14号 平成9年2月号より 

http://www.city.fujiidera.lg.jp/rekishikanko/shiteibunkazai/kunifusiteibunkazai/1387761324664.html

1964年、大阪大学によって発掘調査が行われることになりました。当時の野中古墳について、調査を主導された北野耕平先生は、「はたして古墳であるかどうかの判断を下しかねるほど、著るしく荒廃した感を抱かせ、とくに南側の盛土が大きく削りとられて、墳丘としても主要な部分の大半を失っているような印象を与えるものがあった」と報告書に書かれています。ところが、通称「うらやぶ」と呼ばれていた小さな古墳は、この調査によって一躍人々の注目を集めることになるのです。調査では、甲や冑、刀や剣、鉄の矢じりといった武器類、鉄ていと呼ぶ鉄の地金、鍬や鋤などの農具類、錐やヤリガンナなどの工具類といった多様な鉄製品が出土しました。また、朝鮮半島南部にあった伽耶という地域の土器もまとまって出土しました。円筒埴輪列や墳丘斜面に石を葺いた葺石も確認されています。これらの中で、とくに★鉄製の武器・武具類の圧倒的な多さが目を引きました。これは、一体どのような理由によるのでしょうか。北野先生は、野中古墳が大形の前方後円墳である墓山古墳の陪塚的位置にあることに注目されました。そして、野中古墳に葬られた人物は、生前、墓山古墳の被葬者に仕え、軍事的な仕事をつかさどっていたと推定されました。つまり、そのような人物が社会的地位を承認されることにより、野中古墳のような古墳に葬られることが可能になったと考えられたのです。1990年の藤井寺市教育委員会の調査では、濠の外側斜面から多量の滑石製模造品が見つかり、新たな知見を加えることになりました。発掘調査の喧騒から解放された野中古墳は、再び、往古の静寂を取り戻したかのように見えます。

 

・・・すごい量の武器・武具です。いざという時には、掘り出して使うつもりだった?かもしれませんね。