ファクトリーツアー | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・ヘアーサロン「555 tete frame」(旧・三井釦被服)の建物紹介で、セルロイド技術が発達した今里と書きましたが、こんなWEBサイドがありました。

 

《ファクトリーツアー》

http://www.factorytour-higashinari.com/

大阪市の東部にある東成区。静かな住宅街があるなか、区内には小さな町工場が1000社以上もあるのをご存知ですか。戦後、大阪の産業を担ってきた「モノづくり」の歴史を物語る工場が、実は今も町の風景に溶け込むように佇んでいるのです。そんな工場内では一体、何がどんな工程でつくられているのでしょう。「ファクトリーツアー」で、ちょっと覗いてみませんか。本サイトでは、東成区内の1000以上の町工場のうち、ごく一部ですが、普段は見ることができない工場内を、工場見学をしたようなショートムービー(動画)「ファクトリーツアー」でご紹介しています。「モノづくりの現場」である30の工場内では、機械製造、金属加工のほか、特殊なものから暮らしに身近なアイテムまでさまざまな製品がつくられています。卓越した技術と、「モノづくり」に携わる人々の熱い想いを、この「ファクトリーツアー」の映像で垣間見ることができるでしょう。あなたもこのサイトで、東成区の小さな工場見学「ファクトリーツアー」をしてみませんか。

大阪市内の中心部にある卸売問屋から発注を受け、東成区(当時は今里村など)には、製造工場や町工場が数多く創業します。その分野は多方面にわたり、染織、ボタン、履物などから、ガラス製品、機械製造や金属加工など。さらに、当時新素材として注目されたセルロイドの製造工場も設立されました。文具や眼鏡枠、万年筆、ブラシなどを製造し、地域の有力産業として発展。けれども、時代とともに求められる素材は変化し、需要は減少。現在、その製造工場はありませんが、東成区内にはレンガ造りのセルロイド工場跡や★「大阪セルロイド会館」(国の登録文化財)があります。その建物の様子から、往時の繁栄ぶりを感じることができるでしょう。

 

《参考》「ひがしなり」の地名の起こりは、約1300年前の古い時代にさかのぼります。現在上町台地とよばれている丘陵地帯の東部を“難波大郡”西部を“難波小郡”と称したことが古事記に見えます。郡郷の名称が公式に定められた713年(和銅6)東部の難波大郡を「東生(ひがしなり)」、西部の難波小郡を「西成」と定められこの東生の名は上町台地の東に新たに生まれた集落という意味で、江戸時代中期頃「東成」と表示が変わるまで、千余年間受け継がれてきました。現在の大阪市域の大半は、明治初期まで摂津国東成郡と西成郡に属しており、1878年(明治11)に郡区町村編成法が施行され、改めて「大阪府東成郡」となり、1925年(大正14)4月大阪市に編入され「東成区」が誕生しました。平成27年(2015年)4月には、区制90周年を迎えました。

 

 

《平戸公園》537-0014大阪市東成区大今里西2-6

 

《大阪セルロイド会館》登録年月日:20011120

537-0014大阪市東成区大今里西2-5-12/06-6977-9683

セルロイド会館は、大阪セルロイド櫛工業組合の所有運営する「大阪櫛会館」として昭和6年に建築され、その発起人には小野由蔵が参画していた。三国セルロイドや大日本セルロイドからも出資してもらった経緯がある。昭和12年にL型平面の北半部に南側を増築されました。表現派風の卵頭形断面の列柱を配した北東面と、町家風の窓と庇の意匠をとる南東面は時代差を反映して対照的であるが、1階の庇、2階のアーチ窓、3階の軒のスペイン瓦とが統一的な一体感ある表情をつくりだしている。平成13年に文化庁により登録有形文化財(建造物)に指定されました。「セルロイド」を会館の名称に今もなお冠しているのは、竣工後80年を超えても、セルロイドが今日の大阪プラスチック加工業の原点にあるためであり、業界の往時の栄華の歴史を忘れず、後世に伝えたいという諸先輩の意向を大事にしたいからである。

●関西セルロイド・プラスチック工業協同組合/06-6971-8031

平成14年現在で組合員は66名、賛助会員が18社であり、関西のプラスチック加工業界共通の利益を図るため各種事業を実施している。現在、関西でセルロイドの問屋と加工業者は4社から5社であろう。今も組合の名称にセルロイドを冠しているのは、上記の会館と同じ理由による。わが国でセルロイドの組合は唯一となった。先人の努力に敬意を払うこと、歴史を大事にすることは、極めて変化の激しいグローバルな時代にあっても、大事なことであると信じている。

【小野喜啓】

兵庫県西宮市在住。(株)小野由取締役会長、日本プラスチック工業協同組合連合会会長、関西セルロイド・プラスチック工業組合理事長、大阪セルロイド会館理事長、セルロイド産業文化研究会評議員等

 

 

《参考1》ダイセル

http://www.daicel.com/

★創業前史

http://www.daicel.com/profile/history1908.html

1908年(明治41)に三井家出資の堺セルロイド株式会社、三菱(岩崎家)・岩井商店・鈴木商店出資の日本セルロイド人造絹糸株式会社が設立されたのが、国産セルロイド会社設立のスタートで、これが、堺工場・網干工場の前身です。その後、次々にセルロイド工場が設立され、第一次世界大戦で活況を呈しましたが、その終結の反動不況からのセルロイドの世界的な需要減少による同業者間の販売競争の激化により、業界は疲弊しました。

 

《参考2》タキロン

http://www.takiron.co.jp/

1919年大阪市東成区に滝川セルロイド工業所を設立し、セルロイド生地の製造を開始。その日から現在に至るまで、社会や産業の発展とともに広がるニーズに応えるべく、時代を先取りしたプラスチック技術を結集し、数々の高品質な製品を世に送り出してきました。皆様の身近で、住環境を豊かにする建材製品や、先進のIT産業を支える高機能材料、そして人々の命と健康に欠かせない最先端の医療用材料まで、21世紀もタキロンのフィールドは無限に広がっています。私達は、社会の変化に的確に対応し、プラスチック技術を核として、お客様に対して満足していただける品質を提供することが、最大の使命と考え、社員一人ひとりが変化を先取りし、すばやい決断と行動を起こすことができる集団であるように努力を続けています。こうした経営活動を通して社会と環境に貢献し、「将来的に存続してほしい企業」と評価していただくことが、タキロンの指標です。

 

《参考3》セルロイドライブラリ・メモワールハウス

http://www.celluloidhouse.com/

 

《参考4》富士フイルム

http://www.fujifilm.co.jp/corporate/aboutus/history/ayumi/dai1-01.html

富士写真フイルム株式会社は、1934年(昭和9)1月20日創立したが、当社創立に至るまでの歴史、すなわちその前史を概観し、源流をたどっていくと、さらに15年をさかのぼることになる。1919年(大正8)2月、わが国における写真用乾板の工業化に先べんをつけた東洋乾板株式会社が創立され、さらに、同年9月には、大日本セルロイド株式会社(現ダイセル化学工業株式会社)が創立された。大日本セルロイドは、当時わが国において全くの未開発分野であった、写真フィルムのフィルムベースからの一貫生産を企図し、困難な研究にチャレンジした。そして、長期間にわたって苦しい研究を重ねた結果、その開発に成功し、当社設立の直接の母体となった。当社の歴史は、事実上、この年、この両社から始まった。なお、この年9月にはオリエンタル写真工業株式会社が創立されており、1919年(大正8)という年は、日本写真史上忘れることのできない年であったといえよう。

 

 

《今里西之口公園「謎のコンドル」》東成区大今里3-17

★「大阪あそ歩」より

神武天皇も通った東成~シルクロード(暗越奈良街道)と新道ロード~

http://www.osaka-asobo.jp/course/pdf/m/open/i/20?1481754884000

コンドル(石のレリーフ)は、セメントで形を作られています。地元のお年寄りのお話では、昭和10年(1935)ごろからこの付近にあったようです。ある百貨店にかかげてあったという説や、ワイン工場にあったレリーフであったという説などがあります。

 

★浅野詠子(ジャーナリスト、フリーライター)のホームページより

http://www.h7.dion.ne.jp/~eiko/index.html

まちづくりは肩書で堕落する/2010.8

「何もないまち」。十年ほど前は、にべもなく住民がこう評していたという大阪市東成区。ところがこのところ、まちづくりの動きに目が離せない。五代目笑福亭松鶴ゆかりの楽語荘跡地をはじめ、芸道の歴史的資源がいくつも掘り起こされて顕彰碑もお目見え。商店街では空き店舗を生かし、お年寄りが気軽に立ち寄れて困り事の相談ができる場がつくられた。そうこうしているうちに、菅笠の原料になる菅田が青々と復活し、往時の笠産業の息吹を伝える資料館が民間人の手で堂々のオープン。キーパーソンを挙げればきりはないが、土地や建物を提供した篤志家、愛郷心いっぱいの医師、区役所の協働事業担当の行政マン、まちの技術者、研究者、元某市役所幹部、絵本作家…と色々浮かんでくる。あれよあれよという間に、面白いまちに仕立てていった人物の中に、遊び心旺盛な一人の技術者Tさん氏がいた。いた、と過去形で書いたのは、Tさんはこの夏、中国地方の大学に赴任することになり、しばし大阪を離れるので、今ここに歓送の辞を試みようというわけだ。雑踏に埋もれかけていた今里の赤れんが倉庫を掘り起こし、建物のありかを教えてくれたTさん。これは昭和の初め、当地で隆盛を誇ったセルロイド産業の記憶であった。引火性が高い素材なので、防火に優れたれんが造りを採用したのだという。れんがを用いたのは合理的な因果関係によるものであるが、説明を聞いていくうちに陶然としてくる。これこそ地域の歴史を歩いて味わう醍醐味だから。哀愁を帯びた古い建物の影から、セルロイドのキューピーさんがそっと顔を出しそうだ。今里西之口公園の片隅にひっそりとたたずむ★「謎のコンドル」を、まち歩きのスポットに祭り上げたのもTさんの仕掛け。それは公園に残置されている古ぼけた石造りの鳥像。Tさんによると、少なくとも昭和十一年ごろに工場か何かの敷地に建立されたものらしく、後にその辺りが公有地となり、公園が造成されたが、コンドルはなぜか撤去されなかった。さっそうと羽を広げた体の中央部には社章か何かのマークが刻まれていたようだが、消されている。だれが何のためにコンドルを残したのか、まったく不明であり、とぼけたおかしさがこみ上げてしまう。こういうものを見つけてはしゃいでいるTさんの姿は少年のようだったが、「謎のコンドル」をあえて公式のまち歩きガイドブックに入れた区役所も、なかなか粋なはからいである。昨夜はJR鶴橋駅前の「うをさ」でTさんの歓送会が開かれ、私ははなむけの言葉に「地域資源の発掘人と呼ぶに値します」と賛辞を送った。すると当人はすかさず、「いやいや、そういう名前をつけられると、まちづくりの堕落というのが始まるのですよ」と諭してくれた。なるほど。そういう○○認定とか、○○公認、というような名誉や肩書きというものが権威をもつようになると、まちづくりの目的と手段がいつのまにか逆になり、俗臭を帯びてくるということか。そうか、Tさんはまちをつくる名黒子なのだな。そういえば、肩書きが立派な人たちを集めたまちづくりのシンポジウムがたいして面白くないときがある。かといって、全員が黒子の匿名パネラーでは人が集まらないだろう。けれども、「東成のまちを磨きあげた人々」などのタイトルを掲げれば、たとえ覆面パネラーたちのシンポジウムでも、結構盛り上がるような気がする。聴衆の席からは本物の何かが見えてくるだろう。それはTさんの黒子精神のようなものではあるまいか。まちは、それ自体は何かをしゃべるわけではないが、おのずと醸し出されるものがある。祖父母の世代、そしてもっと遠い、江戸の人々が生活した臭いのような置きみやげ。何かを自慢することもなく、御説を並べ立てるでもなく去っていった人々。生活の営みの結晶のようなカケラが受け継がれていって、古いまちの心をつくってきたのであろう。食器でいえば、作者名こそわからぬが確かな質感のある民芸のようなまち。すり減った路上のものたちが放つ渋くやわらかな光りに導かれ、東成の夢路を歩こう。

 

 

★「平斎の日記」2013.11.11より

[神仏]大今里の【金鵄】、コンドルに非ず

http://d.hatena.ne.jp/heisai/20131111

筆者の考えではこれはコンドルではない。【金鵄】である。コンドルは俗に”禿鷹”ともいうように、白い襟巻きをして頸や頭が剥げているのが特徴である。このセメント像の胸の盾の中央の○の中のマークは確かに大軌(大阪電気軌道=近鉄の前身)の社章である。想像するに、紀元2600年・昭和15年前後の国家意識高揚の時代に、大軌がこれを作ってどこかに飾っていたのではなかろうか?この公園の傍を通る暗越奈良街道には神武天皇通行伝説があり、「神路」(大今里・東今里・深江)「小路(本来、中小路=なかをじ)」(片江・大友・中川・腹見・大瀬)の地名の由来のもととなっている。なお、もとの所有者である清水さんの談によれば、本物はもっと精巧なもので、これはその試作品のようなもの、とのこと。因みにこの公園入り口付近に立つ古い石碑に「今里西ノ口公園 昭和17年11月竣工」とある。

 

 

《橿原市・近鉄大和八木駅前》

634-0804 橿原市内膳町5-1-2

1923年(大正12年)3月21日★大阪電気軌道畝傍線(現在の橿原線)の平端 - 橿原神宮前間開通時に、八木駅として開業。この時のホームは現在の八木西口駅の位置。

市役所本庁前や近鉄大和八木駅北側などに鵄像が止まっているモニュメントがあります。像は日本書紀に出てきた金の鵄を示しています。一部のモニュメントには「建国文化都市」と書かれたものがあります。これは昭和37 年、橿原市議会によって決議された「建国文化都市宣言」を記念して設置されたもの。古代文化に華を咲かした時代をはじめ、国民の奉仕や献木などにより形作られた自然群。これらは先人の偉大なる精神と善意による日本的伝統のたまもの。建国の地としてふさわしく、この伝統を継承し、花と緑に囲まれた国民の憩いの環境と静かなまちを作っていくことが、将来にわたって橿原市民に課せられた最大の使命であり義務であると宣言されました。

 

★橿原市の市章(マーク)

全形は「カシハラ市」の頭文字「カ」の字を表象する。(「カ」)上部の羽型は雄飛を表わし、鵄を表徴し、下部の円型は融和、平和を、平和に発展する古代文化の都を表わしている。

 

・・・いろいろな説があると、「探偵アートスクープ」する甲斐があり、とても勉強になります。