具体美術(11) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・澤田省三さんは、今のうちに『きりん』の功績を書き止めておこうと、『きりんのあしあと』という冊子を刊行されました。澤田さんは「きりん」創刊前年の昭和22年生まれ「きりん」とともに育った世代で大阪市東淀川区在住、大阪府高槻・吹田両市の3つの小学校で校長を務め詩人校長とも呼ばれました。

 

《「きりん」のあしあと》著:澤田省三(児童文化研究所)

昭和23年、焼け野原の残る大阪に、雑誌『きりん』は誕生した。井上靖と神戸の詩人竹中郁の編集で始まり、昭和46年、通巻220号まで続いた。全国から集めた子どもの詩と作文を載せ、選評を加えるという内容である。著者は小学生の頃、作品を『きりん』に応募しつつ、竹中が行う「子ども詩の会」にも通っており、教師となってからは、子どもたちを連れて会に参加していた。本書では、『きりん』に掲載された子どもの詩が随所に紹介されている。編集者たちが、大人の枠組みに当てはめず大きく見守りながら、思う存分言葉によって飛び跳ねることのできる広場を守り抜いてきたことを、著者は伝えている。

 

 

・・・残念ながら入手できなかったので図書館で確認しました。創刊号の表紙は、私の大好きな「脇田和」さん、探しましたがみつかりません。とりあえず、「きりん」を創刊した「尾崎書房」について調べてみました。

 

《尾崎書房》大阪市北区梅田町35

昭和21年、元東宝の助監督だった尾崎橘郎が、妻の実家が愛媛の製紙工場だった関係で出版業に転身。二階建ての急造家屋で、階下が事務所、二階が家族の住居だった。メンバーは妻の尾崎今代、弟の星芳郎、後に「具体」の画家となる浮田要三の4人であった。尾崎が作家志望だったので、まず文芸ものを企画し、顧問の原野榮三の協力も得て、林芙美子の『舞姫の記』『野麦の唄』『妻と良人』『宿命を問ふ女』を次々と出す。他にも丹羽文雄『似た女』、芹沢光治郎『女の運命』、木々高太郎『緑色の目』など。

《参考1》「故郷」1937年(昭和12)5/1公開

84分白黒スタンダード/配給:東宝/製作:J・O

(監督補助)毛利正樹、松村四郎、★尾崎橘郎、(撮影補助)荒木秀三郎、直江隆、(衣裳)橋本忠三郎、(小道具)山本保次郎、(結髪)都賀かつ、(床山)濱田金三、高堂黒天=高堂國典、坂本蓑助=三津五郎

《参考2》「尾崎書房のこと」高橋輝次の「古書往来」より

http://www.sogensha.co.jp/page03/a_rensai/kosho/kosho2.html

「尾崎書房はふしぎな集会場であった。そこに居ると、誰も彼もが、やたらに贅沢な気分になり、贅沢な企画を樹てた。」最近、朝のTVのワイドニュース番組で、八千草薫さんが「お母さん」というテーマの児童詩35作品を朗読したCDが発売されたのを機会にインタビューを受けていた。これらの詩は、昭和23年2月に、大阪の尾崎書房から創刊され、途中理論社に発行元が移り、昭和46年まで続いた有名な雑誌★「きりん」から選ばれたという。私はすぐ、以前大阪の古本屋で「きりん」の詩のアンソロジー『全日本児童詩集』(昭25年、尾崎書房)を見かけながら、買い逃してしまったことを憶い出した。これは、★川端康成を筆頭編者に掲げ、井上靖や竹中郁、足立巻一らが編集したものだ。それにしても、大阪発の雑誌収録の作品が高く評価され、CD化されて今に甦ったのだから、大阪在住の編集者としては一寸誇らしい気になる。この尾崎書房は、梅田堂島にあった★毎日新聞社の近く、桜橋★東洋工業ビルの向いにあった。

 

 

足立巻一らの談話によれば、昭和21年頃、元東宝の助監督をしていた★尾崎橘郎氏が書房を創始した。その当時、井上靖が毎日新聞の学芸部副部長をしており、ある日、新聞社に井上氏を訪ねてきて、文化新聞を出したいと相談された。が、話しているうちに児童詩の雑誌を出すことになった。それで、竹中郁を監修者にし、井上と足立が編集することになる。井上は23年暮まで大阪にいたが、その戦後の三年間を「狐に化されたような奇妙な季節だった」と回想している。それは出版人も同様だったらしい。井上は「私たちは毎日のように、新聞社の近くの尾崎書房に集り、風呂にはいり、闇市から仕入れた夕食のご馳走になった。尾崎書房はふしぎな集会場であった。そこに居ると、誰も彼もが、やたらに贅沢な気分になり、贅沢な企画を樹てた。」と『過ぎさりし日日』(昭52年)の中で書いている。一方、戦前の弘文堂(京都)を経て、現在は一燈園燈影舎(京都)の編集長をしている原野榮二氏の随筆集『うらばなし』(平2年)によると、戦後、氏が疎開先の伊予三島にいた折、当地の大西製紙の社長の娘を嫁にもらった尾崎氏が、会社に仙花紙が在庫されているのに目を付け出版をやりたく、氏を顧問にと要望された。原野氏は以前から林芙美子と親しく、戦時中に氏を介して朝日に連載した『波濤』が弘文堂では出せなかったので、それを『麦秋』と改題して尾崎書房から出したという。これに続けて芙美子の小説は『野麦の唄』(昭23年)、『舞姫の記』(昭22年)、『宿命を問ふ女』(昭25年)が同社より次々と出ている。ほかに文芸作品としては、竹中郁の詩集『動物磁気』(昭23年)、丹羽文雄『似た女』(昭22年)、芹沢光治良『女の運命』、木々高太郎『エキゾチックな短編』『緑色の目』なども出している。原野氏によると、織田作之助や川端康成の小説出版も計画していたが、未刊に終ったらしい。詳細は不明だが、本の発行年から推測すると、25年夏頃までは活発に活動していたと思われる。このように戦後の一時期、新興の出版社が大阪にもいろいろ出現したが、残念ながら短命に終ったところが多いようである。上に私は原野氏の本に従って、林芙美子の『波濤』が弘文堂から出なかったと書いたが、先日、古本で手に入れた講談社文芸文庫の林芙美子短篇集の巻末にある「著書目録」を見ると、『波濤』は昭和14年に朝日新聞社から発行されており、こちらが正しいと思われる。回想記には往々にして著者の記憶違いがあるものである。

《1999「堂島アバンザ(毎日新聞大阪本社跡地)」》

530-0003大阪市北区堂島1-6-20/管理会社06-6343-3636

http://www.avanza.co.jp/index.html

高さ:23階 99.8m/延べ床面積:95,137.47㎡

設計:日建設計/施工:大林組・竹中工務店・鹿島建設

毎日新聞大阪本社跡地に完成したオフィスビル。 計画では高さ190mの超高層ビルとなるはずだったがパブル崩壊で規模が縮小された。ビル正面には、毎日新聞大阪本社の旧社屋玄関の玄関ポーチがモニュメントとして設置されている。オープンスペース内には、外観が奇抜な堂島薬師堂がある。低層階はジュンク堂書店大阪本店や文具店などが入居し、高層階は西日本高速道路本社などが入るオフィスとなっている。地階は飲食店街で、ドージマ地下センターと直結している。

《1965「MID東洋ビル(旧桜橋東洋ビル)」》

大阪市北区曽根崎新地2-2-16

高さ:9階/延べ床面積:19,700㎡/建築主:東洋不動産/施工:大林組

曽根崎通と四つ橋筋が交わる桜橋交差点南西角にたつオフィスビル。 MID都市開発(現・関電不動産開発)が2015年に外装をリニューアル。 名称を★「桜橋東洋ビル」から変更した。 オフィステナントとしてパナソニックエクセルスタッフ(テクニカル事業部 西日本営業所)、全国通販本社、テレビ新潟、日東前項、エイベックス、ポニーキャニオンなどが入居。 1階は三菱東京UFJ銀行堂島支店、地下は飲食店街になっている。 かつては大手総合化学メーカー、宇部興産の大阪支店も入居しており屋上に巨大な社名看板があった(堂島アバンザに移転) 建築主だった三和銀行系の東洋不動産は2014年に三信と合併。不動産仲介・鑑定部門は2004年に東洋プロパティに営業譲渡している。

 

・・・すこしでも当時の雰囲気を味わいたくて、昭和20年代の梅田界隈の写真を集めてみました。そして「尾崎書房」のあと、「理論社」が「きりん」の発行を引き継ぐことになりました。

 

 

《理論社》

103-0001東京都中央区日本橋小伝馬町9-10小伝馬町ビル3F/03-6264-8890

http://www.rironsha.com/

理論社のマークはミケランジェロのダビデ像です。不正に挑む青年のすがた、その若い瞳がみつめるもの、そこに本をつくる意味や喜びをくみ とりたいと願っています。理論社の創業は1947年です。

★児童図書の老舗「理論社」が民事再生法を申請、負債22億

東京都新宿区に本拠を置く出版業の「理論社」は、2010年10月6日付で東京地方裁判所へ民事再生法の適用を申請したことが明らかになりました。1947年に季刊誌「理論」を創刊し事業を開始した同社は、灰谷健次郎氏の「兎と眼」や「太陽の子」などの出版を手掛ける児童文学図書の老舗出版社として知られるほか、1980年代には倉本聰氏の「北の国から」シリーズを出版するなど事業を拡大していました。しかし、景気低迷や少子化の影響で販売が落ち込むと、借入金負担もかさみ資金繰りが悪化。先行きが不透明な中、自力での経営再建は困難と判断し今回の措置に至ったようです。帝国データバンクによると、2010年4月期時点の負債総額は約22億円。なお、今後は事業を継続しながら経営再建をめざす見通し。

 

 

《Editor's Museum「小宮山量平の編集室」》※火曜日休館

386-0025長野県上田市天神1-6-1★若菜ビル3階/0268-25-0826

http://www.editorsmuseum.com/

《編集者の部屋》とでも申すべきコーナーが生まれました。と言っても、15,000冊ほどの「本の置き場所」ができただけです。100冊×150人ほどの空間に、どんな本を、どんなふうに並べようかなどと、これからも二年ほどは考え考え楽しく遊ばせていただきたい。うるわしき五月となれば……と、毎年この季節にはハイネの詩を口ずさんで、馬齢を加えて、今年は89年目、来年が90歳です。どうやら息災の毎日、オープニングとか、開館とかは、とくに決めず面白くつづけられたら良いでしょうね。例えば、椋鳩十/庄野英二/今江祥智/灰谷健次郎/山中恒/いぬいとみこ/神沢利子/長新太/手塚治虫/倉本聰など10人のコレクションを中心に、こんな「遊び場」を創り成した人々のお祭りを時どき開きたいものです・・・・ これは、2005年3月25日、Editor's Museumで開かれたあつまりで、小宮山が語ったことばです。ミュージアムは2005年7月にオープンし、以来多くの方たちが訪れてくださっています。どうぞ、信州上田のほうにお越しの節は、お気軽に足をお運びください。

★うなぎ「若菜館」

http://www.wakanakan.jp/

 

《参考》「灰谷さんと『きりん』」文:エディターズミュージアム・荒井きぬ枝

エディターズミュージアムの扉を開けるとすぐ右側の棚に児童詩誌「きりん」が並んでいます。一号から二二〇号まで―。「いちばんふさわしい場所だから。」そうおっしゃっていた灰谷健次郎さんが送って下さったものです。一冊ずつていねいにビニールにくるんで、自筆の目録を添えて・・・。大切にされていたことが偲ばれます。

日本でいちばん美しい子どもの本を作ろう―

そのような願いが込められて、竹中郁さんや井上靖さんらの手により昭和二十三年に大阪で誕生したのが子どもの詩の雑誌「きりん」です。日本中の教室から詩が送られてきました。けれど経済的には苦しく、昭和三十七年にはその願いとともに編集者小宮山量平に引き継がれました。神戸の小学校の”灰谷学級”の文集がはじめて寄せられたのは昭和三十二年のことです。文集は「きりん」に連載され、やがて「せんせいけらいになれ」という一冊の本になって刊行されました。その中に私の心をとらえた一篇の詩があります。小学校二年生の男の子が書いた詩です。

びょうきぼくにくれ

先生、しんどいか

しんどかったら

いつでも、びょうきぼくにくれ

ぼくはしんどかってもよい

先生がげんきになったら

ぼくはそれで

むねがす―とする

いじめの問題をはじめ、子どもたちを取り巻くさまざまなつらい出来事が連日報道されています。だから今、たくさんの子どもたちにこの詩を読んでほしい。先生たちにも、そしてお父さんやお母さんたちにも読んでほしい・・・、そう願わずにはいられません。むずかしい議論よりも、どうかこの一篇の詩のぬくもりを感じて下さい・・・と。「せんせいけらいになれ」のあとがきで小さな詩人たちに灰谷さんはこう語りかけています。”あなたたちに対しては、教えることより学ぶことの方が多かった。たった一冊の中にある大きな宇宙は、ぼくを力づけ、勇気を奮い立たせ、ぼくの目をしっかり前に向けさせてくれた。”―と。心に寄り添ってくれる先生がいました。それを支えるお父さんや、お母さんがいました。あったかい心がつながっていました。だから「きりん」の中で、子どもたちは輝いていたのだと思います。灰谷さんが大切にされていた「きりん」が並ぶ棚の前で、”「きりん」よ甦れ!”― 私は心の中でそう叫んでいます。

 

 

・・・ここにすべての「きりん」が揃っています。ぜひ行きたい、そして「創刊号」脇田和さんの表紙も拝みたいものです。