・・・城南公園「北国分町」碑の反対側入り口に、
《旧町名継承碑「八尾町」》
町名は、元禄13年の当町年寄を萱振屋四郎右衛門としているところから、八尾・萱振と併記される。河内八尾との関連が想定できるうえに、八尾衆という門徒集団が存在することに由来するそうです。
・・・この通りには多くの「旧町名継承碑」が設置されていました。
《旧町名継承碑「半入町」》
《旧町名継承碑「元伊勢町」》
《参考》大阪市中央区わがまちガイドナビ/中央区の暮らしと文化シリーズ
http://www.city.osaka.lg.jp/chuo/page/0000259742.html
●三の丸となった玉造に集められた戦国武将
大坂城の唯一の欠点は、平野が広がる南側。大坂冬の陣の際に真田幸村が真田丸と呼ばれた出城を築き、防戦したのもこの場所で、玉造の南端にあたる場所でした。豊臣側は、その弱点を補うために、玉造の地を大坂城の三の丸に取り込み、五大老の前田利家や宇喜多秀家をはじめとする名だたる武将に屋敷を構えさせ、有事に備えたのです。旧町名の由来となった屋敷も複数ありました。「紀伊国町」は浅野幸長、「越中町」は細川忠興、「半入町」は青木半入、「元伊勢町」は小出吉政、「仁右衛門町」は増田長盛に由来しています。茶人の千利休の屋敷もこの地にありました。千利休が良い水の湧いたこの地で茶を点てたことは、近年、体育の日に玉造稲荷神社で行われている豊臣家・徳川家ゆかりの茶会「だんご茶会」という行事で語り継がれています。
《旧町名継承碑「左官町」》
伏見町人が移住した町で、その人たちの伏見での居住地の町名に由来したモノとする説と公儀向けの左官の居住地であったという説があるそうです。
《旧町名継承碑「広小路町」》
難波宮跡公園の南に「広小路公園」があります。公園としては難波宮跡と離れてしまっていますが、ここも宮跡の一部で、公園を整備した際には飛鳥時代の井戸と木簡などが見つかっています。また公園の南側にある市立聴覚特別支援学校の敷地内からは、宮の南門(朱雀門)の遺構が見つかっています。
《越中井》
大阪市中央区森の宮中央二丁目12越中公園そば
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009669.html
この付近は細川越中守忠興(ただおき)の邸跡で、越中井はその邸内にあったものといわれている。慶長5年(1600)関ケ原戦の直前、忠興が家康に従い上杉攻めに出陣中、石田三成は在坂諸大名の妻子を人質にしようとしたが、忠興夫人玉子(洗礼名ガラシャ)はこれに従わず、家臣に胸を突かせて37歳の生涯を閉じた。近くのカトリック教会には、ガラシャ夫人像とキリシタン大名の高山右近像がある。
《難波宮跡(難波宮跡公園)】》
大阪市中央区法円坂・馬場町・大手前
http://www.pref.osaka.lg.jp/bunkazaihogo/bunkazai/naniwamiyaatokouen.html
http://www.occpa.or.jp/ikou/naniwa_info/ikou_03.html
『日本書紀』や『続日本紀』に記された難波宮の所在地は、昭和29年(1954)から開始された、山根徳太郎を中心とする発掘調査により、現在の史跡指定地にあることが明らかにされました。その後の調査により、2時期の宮殿遺構があることがわかり、それを前期難波宮、後期難波宮と呼び分けています。前期難波宮の遺構には火災痕跡があり、朱鳥元年(686)に焼失した天武天皇の難波宮にあたり、その創建は「大化改新」ののち、孝徳天皇により造営された難波長柄豊碕宮と考えられています。一方、後期難波宮は聖武天皇によって再建された難波宮です。史跡公園内には復元された後期難波宮の大極殿基壇や前期難波宮の八角形建物などが立体的に遺構表示されています。また、大阪歴史博物館の地下には前期難波宮の倉庫群の遺構が保存され、一般公開されています。
《難波宮調査事務所「資料展示室」》
540-0006大阪市中央区法円坂1-6-41/06-6943-6836
http://www.occpa.or.jp/ikou/miyajimu/miyajimu.html
難波宮跡公園南東隅にある調査事務所には、難波宮跡、大坂城跡、森ノ宮遺跡などから出土した資料(約5,000年前から数百年前)を公開する小さな展示室があります。大阪歴史博物館に比べ、あまり目立ちませんが、生の資料をごく身近に感じることができる施設であり、難波宮散策に合わせ、足をお運びください。
《大村益次郎殉難碑》
540-0006大阪市中央区法円坂二丁目「国立大阪病院」南東角
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009671.html
文政7年(1824)周防に生まれた。弘化3年(1846)23歳のとき来坂、適塾に入り僅か1年で塾頭になっている。明治2年(1869)兵部大輔に任ぜられ、近代陸軍兵制の確立に努力した。しかし不平士族の反感をうけ、同年9月京都で襲撃された。そのとき右脚に重傷をおったが、京都では適切な治療をうけられず、現在の碑の近くにあった浪華仮病院(大福寺から当所へ移転)で右脚切断の手術をうけたが、すでに手後れで敗血症のため死亡した。切断された脚は遺志により、師緒方洪庵夫妻の傍ら(北区竜海禅寺)に葬られている。
《大阪医療センター》
540-0006大阪市中央区法円坂2-1-14/06-6942-1331
http://www.onh.go.jp/mokuji/mokuji.html
★遺跡調査のお知らせ
大阪医療センターは、これまで外来駐車場だった区域に★病院建て替えを計画しています。そのため駐車場を病院北側に移動しましたが、狭小なため皆様にたいへんご迷惑をおかけしております。新病院の完成後には、現在の病院建物を壊して十分な駐車場を確保しますが、しばらく御不自由をおかけしますことをお許しください。駐車場だった区域は、これから約1年をかけて遺跡調査を行う予定です。大阪医療センターの東隣にある難波宮跡は、飛鳥時代と奈良時代の2つの大規模な宮殿跡です。飛鳥時代の宮殿は孝徳天皇により造営され、公地公民や元号制の開始などで知られる「大化の改新」がおこなわれました。新しい宮殿は奈良時代に聖武天皇により造営されたとされています。実は大阪医療センターの敷地も、飛鳥時代の建物と塀の跡が見つかり前期難波宮の一部であったと考えられています。今回の遺跡調査では遺物の発掘と同時に、遺跡を壊さずに新病院を建てる方法を調べます。