具体美術(4) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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◆【芦屋市立美術博物館】◆

659-0052兵庫県芦屋市伊勢町12-25/0797-38-5432

http://ashiya-museum.jp/

 

 

★未知の表現を求めて「吉原治良の挑戦」

2016年9月17日~2016年11月27日

20世紀の前衛美術を代表する画家・吉原治良(1905~1972)の生涯を、第一級の吉原コレクションを誇る★芦屋市立美術博物館と★大阪新美術館建設準備室の所蔵作品から厳選した約90点でたどります。大阪市に生まれ、芦屋市に居住した吉原治良は、実業家として活躍するかたわら、関西の前衛美術をリードし続けました。今日、国際的に評価される美術グループ「具体美術協会」のリーダーとして有名ですが、その先駆性の萌芽は、すでに戦前期の創作活動のうちにみることができます。本展では、具象から抽象へと展開しながら、生涯にわたり最先端の表現を追及し続けた吉原治良の、さまざまな挑戦に焦点を当てます。絵画制作と向き合う内省的な時間と並行して、国内外の多様な人々と交流し、刺激を得て、新たな活動を展開していく様子を明らかにすることで、吉原治良の全貌に迫りたいと考えます。また、近年大阪新美術館建設準備室に寄贈された「具体美術協会関係資料」より、吉原治良旧蔵書籍、雑誌、書簡等の一部資料を展示します。これまでの回顧展では注目される機会の少なかった、舞台上でのパフォーマンス、野外でのインスタレーション作品なども、映像・写真展示によりご紹介します。

 

 

・・・もちろん作品の素晴らしさに感動しましたが、何よりも「吉原商店」のジナン坊としてのジロウさんに、ますます興味がわいてきました。

 

 

《NEWS》2016.6.4朝日新聞デジタルより

今津港の水門建設で灯台や砂浜、どうなる?津波対策で、水門を統合。灯台は移設を検討

西宮市の今津港の工事は、昨年6月に県が策定した「津波防災インフラ整備計画」の一環で、今年3月に始まりました。工事を担当する県阪神南県民センター尼崎港管理事務所に話を聴きました。工事の狙いは、津波が川をさかのぼり、広い範囲が浸水するのを防ぐことです。河口部により近い場所に新しく水門を設けるのが効果的とされ、市内では「新川・東川統合水門」と「洗戎川水門」の2カ所が整備中で、今津港は前者の関連工事です。県は、南海トラフ巨大地震で西宮市に最大3・7メートルの津波が押し寄せると想定しています。「新川・東川統合水門」は、いまある新川の水門を約400メートル下流に移設し、排水機場をはさんで東川の水門と防潮堤でつなげることで、津波が川から越流する恐れがある区間を短縮するそうです。西側にできる洗戎川水門や防潮堤の沈下対策などの効果と合わせると、「西宮・今津地区」の浸水面積は、419ヘクタールから37ヘクタールへと約9割縮減できる見込みだそうです。こうした、津波で大きな被害が想定される市街地の対策工事が終わるのは、2023年度の予定です。移設する水門の内側となる岸壁にヨットハーバーがあるため、水門はヨットの航行に支障がない高さ(海底から約33メートル)に設計されています。また、現在、防潮堤の手前に約120メートルにわたって自然の砂浜が残っていますが、新川と東川の統合排水機場の建設に伴い、流入水路や吸水槽ができることから、姿を消す見通しです。新川の西岸に立つ今津灯台については、持ち主の酒造会社「大関」が移設を検討中です。新しい水門の内側にあたり、灯台として使い続けるためには沿岸に出す必要があるからです。この灯台は江戸に酒を運ぶ樽廻船の航行の安全を願い、1810年に大関の創業家・長部家の5代目長兵衛が私費を投じて建設したものです。「現役の灯台としては日本最古」(西宮市教委)といいます。1968年に航路標識として認定され、74年に市の重要有形文化財に指定されました。大関と市教委によると、移設したとしても、灯台内部の木の柱や石垣の石をそのまま使えば、文化財の指定解除を免れる公算が大きいそうです。ここまでの取材結果を質問者の男性にお伝えしたところ、「灯台と砂浜で写真をたくさん撮ってきた。津波対策なら仕方ないですけど、いまの眺めがなくなるのは残念ですね」と話していました。

 

・・・この「今津港」に「吉原製油会社」の工場がありました。

 

 

・・・有名な「ゴールデンサラダ油」のTVコマーシャルは「水沢アキ」さん、吉原製油は吸収合併で「J-オイルミルズ」になりましたので、市販用のゴールデンサラダ油もなくなってしまいました。

 

 

《吉原治良略年譜》

http://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu120/artrip/gutai_yoshihara_life.html

1905年1月1日、父★吉原定次郎、母アイの次男として大阪市東区大川町に生まれる。

1928年12月、関西学院研究科を退学し★吉原定次郎商店に入社する。

1929年6月、西宮★今津工場が発足。工場長となって工場内にはアトリエを構える。