《源聖寺》
大阪市天王寺区下寺町1-2-25/06-6779-3625
2016年6月9日★ホームページが完成しました。
http://terateratera.sakuraweb.com/teramap/genshouji.htm
慶長元年(1596)12月、遠誉荷公上人が創建。後に徳川家康の都市計画により現在地に移転した。大阪大空襲の戦災を免れた江戸初期建築の本堂は昭和48年(1973)の不審火により焼失した。寺の名を冠した源聖寺坂は「なにわ七坂」のひとつとして著名である。この坂は人々の往来のために作られていて、もともとは境内の敷地の一部だったといわれている。本尊の阿弥陀如来仏像は安阿弥作と伝えられる2尺5寸の立像である。開山遠誉上人が大阪冬の陣の戦火を避けて海に流したが、後に光を放って海辺に戻ってきたという逸話が「源聖寺縁起」に記されている。ご本尊の他に、堂内には「延命火除地蔵尊(鎌倉時代)」を祀っている。「この場所」は「火が出る」 という言い伝えがあったようで、実際に何度か小火も起こっていたそうだ。そうした事情が忘れ去られ、本堂から地蔵尊を持ち出した。すると、とたんに火災にあった。現住職も子どもの頃にその火災を経験して「焼けてしまったご仏体を見ると、目に入っているガラスがとけて、涙を流されているみたいで、大変ショックを受けた。」と語られた。今、延命火除地蔵尊は元の場所に奉られ、いつも微笑みをたたえ、人々の心を和ませている。また、「光のお地蔵さま」 として人々にも親しまれている。
堂前の救世観世音菩薩は「花の観音様」として親しまれ、遠方より参詣される方も多い。このお寺にまつられている。観音像のおまつりの方法を試行錯誤していたころ、コサージュのデザインをしている若い女性から 「紐をつけてそこにお花をつけたらどうですか?」と言われ、紐に布の花を通し観音様の周りに吊るした。そして、その紐に新たに布の花を結べるようにしたら、いつのまにかその花に参拝者が 願いを書くようになった。多くの人を救う――救世観音菩薩の周りには 人々の願いが“結ばれている”のです。
庫裏及び山門は平成20年(2008)登録有形文化財に指定された。江戸時代前中期の書家・狂歌師永井如瓶、江戸中後期に活躍した池大雅門下の絵師福原五岳の墓がある。年中行事として修正会・春秋彼岸会・盂蘭盆施餓鬼会などをいとなむ。
聖蓮堂/永代供養墓併設の円形の納骨堂です。お堂の中にはお釈迦様をお祀り致しており、その左右にロッカー式の納骨壇があります。お堂の周りには永代供養墓―ご遺骨を埋葬する施設(カロート)があります。ご遺骨は半透明のガラスの蓋を施錠することによって守られています。カロートから明かりが出るようになっていて、閉門までの一定時間点灯するようになっています。
人形フェスと源聖寺、なにわ人形フェスティバル の時には普段来ないような若い人が源聖寺に集まった。特にベルギーのアニメーションの上映の際には 本当にたくさんの人が集まった。このお寺は、いつでも参拝できるように 常に門が開かれている。人形フェスに限らず、たくさんの人が来てくれることはうれしい、と住職は語る。また、住職の奥様は音楽のご経験があるそうで、 月に 1 回コーラスのレッスン をされている。
・・・久しぶりに「天王寺公園」へ行ってみましょう。
《逢坂》
名称は逢坂関に由来するとも、聖徳太子と物部守屋が法について討論した合法四会に由来するとも言われる。「合坂」、「相坂」とも表記された。平安時代の頃には、坂の上り口にあたる現在の天王寺公園北口交差点あたりまで海であり、このあたりは「合法ヶ辻」と呼ばれ、のちに浄瑠璃『摂州合邦辻』の舞台ともなった。近代以前は馬車馬が音をあげるほど急な坂だったと伝えられ、道も狭く、事故多発地点だった。1876年(明治9)に茶臼山観音寺の住職が寄付を集めて坂を切り崩して緩やかにする工事を行った。明治時代末期に大阪市電の第三期線建設に伴い、道路が拡張されてほぼ現在の姿になった。
《料亭「天王殿」》
537-0062 大阪市天王寺区逢阪2-8-52/06-6771-6010
《四恩学園》
543-0062大阪市天王寺区逢阪2-8-41/06-6771-9360
http://www.shiongakuen.or.jp/y.php
四恩学園は1915年(大正4)9月宗教大学を出た大阪在住の若い僧侶たちが、社会事業の先駆けとなる「四恩報答会」を創設し、100年の節目を迎えました。児童養護施設は、さまざまな理由で、保護者が養育できない2~20歳までの子どもを、児童福祉法の精神と四恩学園の理念に基づいて、家庭に代わって養育しています。児童養護施設のほかに、2箇所の地域小規模児童養護施設「洗心館」「河堀荘」、病児・病後児デイサービス事業を実施し、子どもたちは地域の幼稚園、小中学校、高校へ通学し、地域やボランティアの人たちにあたたかいご支援をいただきながら、元気な日々を送っています。また、家庭復帰や里親委託、自立支援、アフターケア、心理療法など、子どもの状況に合わせた援助も行っています。
《玉手の水》★四恩学園前
かつては一心寺の西に位置し、天王寺の高台からしたたり来る水であったといわれています。現在は井戸の跡形もなく、完全に枯れ果てており、所在地も不明のまま。
安居神社から逢坂を横切って歩くと、児童福祉施設四恩学園の門付近に「玉手水旧跡」と刻まれた自然石の碑があるのみです。なお、伶人町に建つ清水寺の玉出の滝とは別ものです。
《参考》天王寺七名水
http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/page/0000070756.html
上町台地は、生駒山からの伏流水が地下を通り、良質な井戸水に恵まれた地です。大坂の町がたびたび飲料水不足に悩まされていた時代も、豊富な水が人々の生活を救いました。特に重宝されていたのが、「天王寺七名水」「逢坂清水」と名高い各井泉。天王寺七名水は、金龍、有栖、増井、安井、玉手、亀井、逢坂、の七つの井戸を指します。残念ながら現在は、金龍と亀井の水を残して枯れ果ててしまいましたが、地域の人々の協力を得て、井戸枠などを残しているものもあります。
《玉水町》
町名は、天王寺★七名泉の1つである「玉出(手)水」から採ったといわれている。