岡本太郎(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

・・・「淀川警察署東三国交番」を設計された西峯明日香さんの学校は、

《参考》修成建設専門学校

555-0032大阪市西淀川区大和田5-19-3006-6474-1644

https://www.syusei.ac.jp/

本校の校名「修成」は、古事記・国生み神話の「修理固成」から創案したものです。昔々、ほんとうに遠い昔、そのころの国土は、まだ油のように、ふわふわと海に漂っているだけでした。そこで、天の神一同が、イザナギノミコトとイザナミノミコトに、「漂っている国土を修理固め成せ」つまり、「この漂っている国土をしっかりとつくり固めるように」と命じられました。このことがつまり「修理固成」、国土をきちんと形づくり、それをきちんと治めなさいということです。本校の創立者である国学者★木下寅吉が、この意味に「国土建設に奉仕する精神」を込め、「修成」という名をつけました。本校は「国土建設に貢献する有能な建設技術者を養成する」ことを理念に、1910年(明治43年)の創立以来、建設業界に有能な人材を輩出してきました。時代の流れとともに設置学科を変え、教育課程を改新してきましたが、この理念は今も変わらず「修成」の基本になっています。

https://www.syusei.ac.jp/about/about09.html

本校の学生は毎年、学外の設計コンクールに積極的に参加し、数々の賞を獲得しています。これは、修成の学生たちの日々の努力と「本物の実力」が、社会に認められた結果といえるでしょう。学校全体でコンクールに参加する学生たちを熱心に指導、応援しています。


けんせ1


《「あすなろ夢建築」大阪府公共建築設計コンクール第24回グランプリ》

http://www.pref.osaka.lg.jp/koken_keikaku/asunaro/

安岡三四郎さん(第2本科建築学科)出身:兵庫県立西宮香風高等学校

さまざまなシーンで活躍するキッチンを敷地の中心に配置し、集会室、テラス、広場で囲むプラン。遊歩道に向けたテラスを玄関とし、気軽に入室できるようになっている。★本作品は実際に大阪府羽曳野市に建設されます。

★第24回大阪府公共建築設計コンクール

http://www.pref.osaka.lg.jp/koken_keikaku/asunaro/asunaro24.html

今年度の設計課題は、大阪府営羽曳野古市住宅団地(以下、「本住宅」という。)の集会所です。本住宅は、羽曳野市の中央部に位置し、近鉄南大阪線「古市駅」から南に徒歩約20分の場所にあります。本住宅の周辺は、北側、東側、西側に戸建て住宅が立ち並び、南側には田畑が連なっております。また、世界文化遺産への登録をめざす百舌鳥・古市古墳群や竹内街道を北側に構え、歴史文化が豊かな地域となっております。昭和40年頃に建設された本住宅は、大阪府最後の簡易耐火住宅であり、建替え工事が決定しております。現在、団地建替えの設計段階であり、順次、撤去及び新住棟の建設を進めていく予定です。課題である集会所は、第2期工事で建設される計画となっております。本住宅では入居者の高齢化が特に進んでいることから、課題の集会所が、高齢者の方々が気軽に立ち寄り食事会や団らんなど様々な利用をすることで、いつまでも活き活きと暮らす活力の源となることを期待しています。また、将来的に地域の方とも交流できるような「ふれあいリビング」を行うことも想定しています。これらを踏まえ、入居者から周辺地域の方まで誰もが立ち寄りたくなるような、“共に生きる”集会所の提案を募集します。

・・・こんなところで羽曳野市とのつながりが出てくるとは、奇遇ですねえ。


けんせ2


【神崎川】

大阪府北部から兵庫県東南部を通る淀川水系の一級河川。摂津市の一津屋で淀川から分岐し、大阪市東淀川区相川で安威川と、淀川区加島付近で猪名川と合流して、西淀川区で左門殿川・中島川・西島川と分かれた後大阪湾へと流れ込む。古くから農業用水、水運に使われている。また、猪名川と合流する手前から河口までは大阪府と兵庫県の境界となっているが、途中の右岸(兵庫県側)にある中洲は大阪府に属する(西淀川区佃)ため、この区間では中洲の右へ分かれる左門殿川が府県境である。

平安時代後期には、神崎川沿いには貴族や寺社の荘園が開発された。河口部の神崎の港は海上・河川の物資積み替えや、京から西日本各地の荘園や住吉神社詣でに向かう貴族や庶民で賑わった。また、神崎と江口はともに遊女の集う「天下第一の歓楽の地」としてライバルとなり全国に知られた。平安時代末期には、さらに下流に広がった新しい海岸に大物と尼崎の港が形成されている。鎌倉時代には、荒れ気味だった港を東大寺の再建造営を任されていた重源が再建し、奈良や京都にできる巨大な寺社の材木を集める港として、また瀬戸内海の物資を集める港として栄える。戦国時代に尼崎の港は大覚寺や本興寺を中心として、堺や平野などと同様な自治都市になった。

《榎木橋》大阪市淀川区十八条2-18

淀川区側の地名は十八条、吹田市側の地名は江の木町(えのきちょう)である。


けんせ3


《参考》吹田のクワイ

http://www.suita-kankou.jp/?page_id=88

吹田くわい保存会

http://suita-koueki.org/npo/suitakuwai/

吹田くわいの記録は、今から300年前の貝原益軒の「大和本草」などにも取り上げられています。また、狂歌の作者としても、食通としても有名であった蜀山人(大田南畝)が、大阪での美味なものとして、「思い出る 鱧(はも)の骨きり すり流し 吹田くわいに天王寺蕪(かぶ)」という狂歌を残しています。食道楽の蜀山人を唸らせたほどであり、実際に吹田くわいは 大坂名物番付の関脇に位置づけられていたことからも、美味であったことが覗えるのです。また、江戸時代後期の歴史家、漢詩人、陽明学としても知られる頼山陽が、母親の希望でわざわざ吹田くわいを取り寄せて喜ばせたという親孝行の話も伝えられています。江戸時代には、吹田が京都の仙洞御所の御料地になり、天皇をはじめ皇族方にも召し上がって頂けるように、4つの禁裏(本御所・仙洞御所、女御御所、大宮御所)に献上されました。その際、菊の御紋のついた竹製の大名駕籠を模した献上駕籠に乗せ、庄屋・年寄り・大百姓らがつき従い、高禄の大名行列も道を譲ったそうです。天和3年(1683年)から明治維新まで、200年近く献上が続いたのは、その味が最高に素晴らしいものであった証拠ともいえます。(明治天皇、大正天皇にも奉祝のために献納されたという記録が残っています。)また、明治以後の近代になってからは、日本の植物分類学の大家である牧野富太郎博士によって、吹田くわいの学名が名づけられ、昔中国から輸入された一般のくわいの1品種ではなく★「オモダカ」が日本の肥沃な土地で成長進化したもので、★吹田原産であることを明確にされました。


けんせ4


http://www.suita5u.com/?page_id=2150

※オモダカ(沢瀉、面高)とは

アジアの熱帯域から温帯域及び東欧にかけて広く分布しており、日本には洪積世(約180万年前~1万年前)よりも以前から分布していたと考えられています。オモダカは、日本最古の鎧で国宝でもある沢瀉威鎧にもその名が使われ、毛利元就が家紋にしたこともあり、別名「勝ち草」とも呼ばれています。オモダカの独特の葉の 形は、遠くから見ると弓矢や旗を持った侍が大挙しているように見えたことから、武家の家紋として好まれ、沢瀉紋は日本十大紋の1つとして40種類以上あります。英語表記のアローヘッド Arrowheadは、このオモダカの葉が矢の形をしていることが 由来です。(オモダカの表記の1つ「面高」は、脊の高い茎の上にある人の面のような葉が、水稲の上から出ていることが語源と言われています)


けんせ5


・・・素敵なデザインですね。