・・・喜連環濠集落(3)で、「息長眞若中媛」や「息長川」については、私の理解を超える難しい内容なので、「楯原橋」だけ紹介しました。しかし、「旭園」も再調査して成果がありましたので、「喜連」再訪です。
http://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000033895.html
《楯原橋》
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000030731.html
この辺りは古代には百済郡と呼ばれ、朝鮮からの渡来人が定住し、日本へ先進的な仏教文化が伝えられたところである。橋には百済の象徴である百済瓦の文様をデザインに取り入れて歴史を顕彰している。単弁の軒丸瓦の文様を高欄のデザインに使用し、花弁模様の舖装を施している。
《緑橋》
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000072428.html
この辺りは古代には百済郡と呼ばれ、朝鮮からの渡来人が定住し、日本へ先進的な仏教文化が伝えられたところである。橋には百済の象徴である百済瓦の文様をデザインに取り入れて、歴史を顕彰している。高欄には、軒丸瓦を模した円板が取り付けられている。
【楯原神社】平野区HPより
http://www.city.osaka.lg.jp/hirano/page/0000210303.html
喜連西北端の旧字楯原(現喜連西1丁目)にあったが、兵火・台風などの被災で文明13年春現在地付近に移ったとされる。延喜式(867)神名帳記載の古社。明治以後の祭神は武甕槌大神と大国主大神。平成23年大阪市文化財の指定を受けた奥殿の氏神天神社は大坂夏の陣後真っ先に再建された元和年間の築造で、喜連で最古の建物である。明治37年環濠浚えの時★広住塚前で発見された★「息長眞若中媛」標柱が境内最奥に移されている。昭和59年旧社地近辺の今川に古地名を顕彰して★楯原橋(大阪市「歴史の橋」★第1号)が架けられている。
【広住塚】大阪府全志・巻之3より
広住塚といへるは西喜連西町西口の字上田にあり、南北三間・東西五間・高さ四尺許にして樹竹雑生せり。応神天皇の妃息長眞若中女姫の墳なりと伝え、今を距ること二十年前邑の外濠浚渫に際し、塚邊より一の建石を掘出したるに、息長眞若中女姫の刻字ありて、今も楯原神社に所蔵せらる。
・・・さらに「東喜連」も散策しました。
【東喜連南口地蔵尊】平野区喜連東2-2-54
http://www.city.osaka.lg.jp/hirano/page/0000275821.html
東喜連南口地蔵尊は一筋北の辻付近より移されている。近年発見された文化十三年(1816)の村絵図から、その地は東喜連村を南北に貫く村の本道が環濠と交わる地点であり、江戸時代の東喜連村の字「南口」に当たることがわかった。中世には東喜連村は周囲を堀で囲まれた環濠集落だった。南口から南は集落が一旦途切れ、田畑の中を道が河野村に通じていた。近代に東喜連村と河野村は次第に繋がり合って東喜連地域の集落を形成してきたので、この地域に唯一残ったこの地蔵堂が両村の中間にあることは現在の東喜連の地蔵尊にふさわしいと思われる。地蔵堂には大小三体の石仏が安置されている。正面の地蔵尊は台石に「寛政三年(1791)六月吉日 願主 東喜連村」と彫られている。他の二体は自然石に浮彫された古いタイプで、焼けて割れたと見える石仏の上半身である。このことから中世の戦乱期より村の南口を守ってきた古い地蔵尊が、村の平和と繁栄に伴い、現在の立派な地蔵尊に更新され、地蔵堂が建立されたことがわかる。現在ではこの地蔵堂は★八坂神社の氏子組織で維持管理されている。