人権センター(3) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・せっかくなので「舳松」界隈を散策することにしました。


《布袋温泉》

590-0822堺市堺区協和町2-61-10/072-244-4176

http://www.city.sakai.lg.jp/yoyakuanai/bunrui/shimin/hoteionsen.html


ほてい1


【泉野利喜蔵】

1902年(明治35)泉北郡舳松村(現堺区協和町)で生まれました。地元の青年団有志で「一誠会」を組織し、西光万吉・阪本清一郎らと出会い全国水平社を創立したひとりです。差別糾弾闘争にあたる一方、舳松村の★堺市編入反対闘争では部落ぐるみで水平社運動へ引きつける指導力を発揮しました。差別意識の強かった大正時代、舳松は部落解放運動の中心地でした。多くの解放運動家が舳松の地を訪れました。そのなかでも西光万吉は舳松を奈良県の柏原につぐ第二のふるさとと思い、水平社運動を全国に広めるための活動拠点としていました。


《論文》「舳松村の堺市編入反対運動/北崎豊二」(部落解放研究No.148/2002.10)より抜粋

【南舳松青年団】

大阪府泉北郡舳松村は、1925(大正14)年10月1日に堺市と合併した。といっても、実質は吸収合併であり、堺市への編入であった。この編入に★泉野利喜蔵ら舳松村の部落民が反対し、しばしば村民大会を開催するなどしたが、水平社同人の米田富らも反対運動を支援した。それだけに、舳松村の堺市編入反対運動は、水平運動とかかわりのあるものとして早くから注目されている。堺市に合併する前の舳松村は泉北郡に属し、堺市と隣接する村であった。同村は北方(通称北舳松)と南方(通称★南舳松)に分かれ、南方が被差別部落であった。


ほてい2


泉野は地元・舳松で、水平社を少数精鋭の闘いにとどめるのではなく、その影響力を村全体にひろめるために壮大な実験をしている。1925年初めからの舳松あげての堺市への合併編入反対闘争では、これを水平社のみのたたかいにとどめず、当初から村民大会を積み重ねて編入反対を村民全体の合意とし、この力をもって6カ月の編入延期を実現した。

同調書には舳松村と堺市とが合併する理由についても記されている。その理由書の一つが「村市合併ノ儀二付具申」である。この「具申」では、地理的関係、歴史的関係、教育・衛生・その他自治的施設の関係、商工業発展上の関係などから合併する必要があるとしている。まず、地理的関係においては、堺市と舳松村が接続している部分がかなりあり、接続地においては「逐年家屋ノ密度ヲ加へ純然ダル市街地ヲ形成シ一見堺市タルノ観ヲ呈ス」など、「地勢上毫モ行政区域ヲ異ニセルコトヲ認ムヘキモノ存セズ」、水利関係も利害を同じくしていること。「舳松村内ノ処々二堺市ノ飛地存在シテ頗ル複雑ナル関係ニアル」こと。加えて、最近、★府立農学校が舳松村に移転することになったこと。仁徳天皇★「御陵道改修区域」の大部分は舳松村であるが、一部分は堺市に属し、緊密な関係にあること。その他、警察署・郵便局・税務署なども同一所管の下にあることを合併の理由としている。第二の歴史的関係においては、江戸時代の舳松村が堺奉行の管轄に属し、堺市と同一関係にあったこと。神社と氏子との関係でも、堺市内にある★開口神社は、古くから舳松村の氏神であり、「現今二於テ舳松村民ガ開口神社ヲ氏神トスル以外ニ奉斎神社ナキガ如キ」状態にあること。その他、人情・風俗・言語・習慣などでも堺市民と異なるところがなく、舳松村の「住民ハ常ニ堺舳松ト称シテ毫モ憚ラザル」状態にあるとし、歴史的関係において、きわめて密接であることを合併の理由としている。

《参考》大阪府立農学校「大仙時代」

http://www.museum.osakafu-u.ac.jp/html/jp/history/photo/detail.php?id=4


【家原文殊道石碑】

1844年(天保15) 12月に建立されました。碑には「右 家原文殊道」と刻まれ、右に4キロ程いけば家原寺へ辿りつくと記されています。家原寺へ続く道しるべとして、昔の絵図などにも描かれています。


ほてい3


《福徳延命地蔵尊と協和湯跡》



ほてい4


《中川家の新工場跡地(毛工場)》

泉野利喜蔵を中心に、青年たちの組織「一誠会」が活動の拠点としていました。


《光雲寺》

590-0822堺市堺区協和町3-186/072-241-0456


【坂田三吉顕彰碑】舳松社会教育会館前/堺市堺区協和町3-219

堺県大鳥郡舳松村塩穴(現在の堺市堺区協和町)の生まれである。生業の草履表づくりを手伝いながら、将棋を覚える。1886年(明治19)ごろ、日本橋の履き物問屋に丁稚奉公、町角の縁台将棋によく顔を出し大人を負かせるなど早熟の天才振りを見せていた。だが、将棋に夢中になるあまり背負っていた奉公先の子供を負傷させ、暇を出されたといわれている。その後は実家に帰り家業を手伝いながら賭け将棋で腕を磨き、素人(アマチュア)の将棋指しとして大阪で有名になる。この頃、当時「大阪名人」と呼ばれていた小林東伯斎(天野宗歩四天王の一人)に教えを乞う。1955年(昭和30)日本将棋連盟から名人・王将の称号が贈られた。大阪市浪速区の新世界★通天閣下には「王将」の碑がある。また★生家跡にも1989年(平成元)11月、「王将阪田三吉顕彰碑」が堺市によって建立された。墓は大阪府豊中市★服部霊園。これは、阪田のファンであった高橋龍太郎の寄附によって1954年(昭和31)に日本将棋連盟が建立した墓で、除幕式には土居市太郎、木村義雄、升田幸三、大山康晴ら40名以上の棋士が集まった。しかし、阪田三吉墓は清水次郎長の墓と同じ様に扱われてか、将棋の駒型の墓石を金槌で打ち欠き、その破片を勝守りとする人が絶えず、墓石が損傷している。1988年(昭和63)から、出身地の堺市で「阪田三吉名人杯将棋大会」(堺市立陵西中学校体育館、アマチュア棋士対象)が開かれている。


ほてい5


NEWS》2016.2.16大阪日日新聞より

坂田三吉の歩み紹介 将棋クラブ「王将」が一時開放

 棋士坂田三吉(1870~1946)ゆかりの大阪・新世界(大阪市浪速区)で2015年10月に閉店した将棋クラブ「王将」が2016年2月13日に一時開放された。没後70年を迎えた坂田の対局写真や棋譜が展示され、常連客だった将棋ファンは「大阪人の土根性」の象徴だった伝説の棋士の歩みに思いをはせた。新世界のジャンジャン横丁で60年以上の歴史を刻んだ王将の跡地は、串カツ専門の飲食店として4月に生まれ変わる。家主から土地建物を借りたセレクトホールディングス(大阪市中央区)が改築前の将棋ファン感謝イベントとして「銀が泣いている」という坂田の有名な言葉に関する資料などを展示した。王将に49年間通い続けた堺市中区の宮崎健二さん(69)は「ここが大阪将棋の本場だった」と振り返り、東西の棋風について「東京は理論的に考えるが、大阪は実戦派。その典型が坂田三吉だった」と説明。その坂田の功績を伝えた王将をめぐって「常連客には心の触れ合うサロンだった」と懐かしんだ。坂田は堺市出身。関東棋界の関根金次郎と名勝負を繰り広げ、没後の1955年に日本将棋連盟から名人位・王将位が追贈された。新世界の通天閣に立つ顕彰碑には「大阪人の土根性の偉大さをしらしめたる」と刻まれている。


《願專寺》

590-0822堺市堺区協和町3-270/072-241-3110


・・・「耳原病院」もキレイになりましたねえ。