《NEWS》2008.4.9産経新聞より
「大坂画壇」絵画、流出に泣く/欧米注目、投げ売り状態
江戸中期から戦前まで「東京画壇」「京都画壇」と並び、多くの作品を生み出した「大坂画壇」の絵画が、大英博物館や米ボストン美術館など海外に流出し、大阪から姿を消しつつある。大坂画壇のレベルは東京、京都画壇と遜色はないが、価格が約10分の1というのが大きな理由。財政難の大阪の自治体は絵画購入まで手が回らず、美術関係者からは「公立美術館で流出防止の手を打つべきだ」との声も上がっている。大坂画壇は江戸中期から商人の支援を受け、文人画を中心に質の高い作品を数多く生んだが、大阪経済が力を失うに従い支援者を失っていった。研究者も少なく、忘れられた存在になり、現在では投げ売り状態に近いという。
・・・さて、菅楯彦さんの妻・日本三名妓の一人、大阪南地★富田屋「八千代」さんのことは、すでに多くの方が紹介されています。そこで「富田屋」について調べてみることにしました。
【富田屋】現:大阪市中央区宗右衛門町6番13号
「宗右衛門町」は道頓堀川の北岸、明治5年3月17日の町名分合改称により、堺筋の両側は長堀橋筋2丁目に、心斎橋筋両側は心斎橋筋2丁目に編入され、両町にはさまれた残りが宗右衛門町となりました。『大坂地籍地図』南区(吉江集画堂地籍地図編輯部・明治44年)によりますと、富田屋の主人★「矢田市兵衛」宗右衛門町21となっています。この『大阪地籍地図』の宗右衛門町の部分で地図に名前があるのは「富田屋」だけです。他の資料もあわせると、「富田屋」は「番地16」が「地番21」です。地番21のところは、現在の住居表示では、大阪市中央区宗右衛門町6番13号となっています。区の名前は、平成元年2月に東区と南区の合区により「中央区」となりました。
《宗右衛門町》
2013年3月、宗右衛門町通り全区間の「電線地中化」「石畳の美装化」の整備工事が完了しました。これまで、空を覆っていた電線や電柱が無くなり、街の空が明るく見えるようになり、また、グレーのアスファルトが、黄色系の風合いのある「石畳」になり、明るく広い道となりました。「舗装が変わっただけだろう…」と言わず、ぜひ、一度お立ち寄りください。電線や電柱がなく、明るい「石畳」になった道は、過去の姿をご存じの方なら、ちょっと感動ものです。これまでも、この「電線地中化」の実現は、多くの行政関係者や土木・建設工事等に携わる業者の皆さんから、「実現すれば奇跡的、表彰ものだ」と度々言われていました。確かに対象地区内の多くの事業者の皆さんのご理解・ご協力がなければ実現しなかったものです。また、工事着工から約3~4年での完成も「奇跡」だと言われていますが、これは、行政や米性企業体の皆さんのご努力によるところが大です。「石畳の道」の実現は大きな成果であり、劇的な変化ですが、これだけで”美しい街並み”になるわけではありません。しかし、宗右衛門町では、「宗右衛門町地区地区計画(条例)」の施行や、警察・行政などの継続的な連携で、ビルなどの建物を新築したり、大規模な増改築を行う時には、この「石畳の道」に合わせた意匠(デザイン)などについて、地元・当商店街と協議して頂くことがルールとなっています。このようなルールによって、近い将来、「石畳の道」を中心とした”美しい街並み”づくりに繋がっていくことは間違いありません。
《参考》お茶屋「島之内たに川」
542-0082大阪市中央区島之内2-4-29/06-6211-2219
http://megumu.blog.eonet.jp/megumu/
大阪・ミナミ唯一のお茶屋「島之内たに川」花街文化を発信
https://thepage.jp/osaka/detail/20150111-00000006-wordleaf?page=1
「生活の変化でお茶屋が減り、芸妓さんも減少しました。今、世の中も不景気で、ご接待に使う方も少なくなりました。お茶屋は敷居が高いと思われがちですが、当店では個人で寄り集まってお茶屋を純粋に楽しめます。芸妓さんを呼んで遊ばれる宴会はもちろんですが、芸妓を呼ばずに、飲むだけでも構いませんよ」(二代目若主人・谷川恵さん)紹介がないと入店できないとかでもなく、サラリーマンでも、個人事業主でも、予約をすればお座敷遊びを体験できるという。大阪にはかつて「花街」と呼ばれる歓楽街があり、代表的なものは北新地、新町、堀江、南地の4つだった。昭和10年頃、芸妓の数は北新地で500人、新町900人、堀江500人、南地は約2000人を抱え、日本最大の花街としてにぎわっていたという。とくに、ミナミは「南地五花街」(宗右衛門町、櫓町、坂町、難波新地、九郎右衛門町)としてエリアも広く、お茶屋や高級料亭、料理店、旅館など格子づくりの建物が軒を連ね、日本で最も活気があったそうだ。道頓堀川から北の島之内側は高級な街、その対岸の南岸は庶民的な社交の街と位置づけられ、中でも「宗右衛門町」は最も格式が高く、「大和屋」★「富田屋」といった豪華なお茶屋が繁盛していたと言われている。だが戦後、大阪万博の頃をピークに減少し、今では芸妓はミナミに1名、北新地に7名のみ。お茶屋の存在を知らない人も多いのではないか。「島之内たに川」は昭和44年に開業。もともと芸妓だった谷川恵美子さんが料亭を買い取り創業したもので、「昭和63年に、黒塀の木造二階建てを四階建てのビルに建て替えました。その中に数寄屋造りのお座敷を設けたんです。4部屋の個室を備えています。全盛期の頃、ミナミに5、600軒あったお茶屋も、今では1軒だけになりましたね。だから低料金にして、利用客を増やしたいと思っています」(初代・谷川恵美子さん)
《デイリー新潮より》
お茶屋文化とは何だったのか/『大和屋物語――大阪ミナミの花街民俗史』
http://www.dailyshincho.jp/article/2015/03181600/?all=1
刈り取った後の稲田に散乱する落ち穂。民俗学を志すほどの者は、落ち穂ひろいをしてゆかねばならない、と著者は「あとがき」で述べる。かつてにぎわいと格式を誇り、日本のもてなし文化の最高の純度を示した大阪ミナミ(南地)の大茶屋、東京でいう高級料亭。時代の流れにはあらがえず、徐々に退場を余儀なくされたその姿を文化的な落ち穂ととらえるなら、民俗学が考察の対象に取り上げるのも大いに納得がゆく。大阪ミナミの宗右衛門町にあった「大和屋」は、平成十五年に看板をおろす。大茶屋とは一般の料理茶屋がお茶屋と呼ばれるのに対し、とりわけ格式の高い店を指す。戦前までの宗右衛門町には富田屋、伊丹幸、紀の庄などの大茶屋が並んでいたが、いずれも早々と姿を消し、大和屋が平成まで営業を続けてきたこと自体が一つの驚きだったらしい。本書は女将・阪口純久(きく)への聞き書きを軸に構成される。大和屋そのものの歴史と、大阪ミナミの花街(料理茶屋街)全体の民俗史だ。
・・・さて、ありがたいことに富田屋さんの建物が嵯峨野に移築され、現存していますので紹介しておきましょう。
《豆腐湯葉料理「嵯峨野」》
京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町45/075-871-6946
http://sagatofu-morika.co.jp/sagano.html
京都嵐山にある「湯豆腐 嵯峨野」。この建物は★村野藤吾設計の「富田屋」を移築したもので実際に湯豆腐屋さんとして営業されています。
・・・「嵯峨野」に設置されている高札には、大阪南地にあった「富田屋」を昭和25年1月18日、20年の歳月を費やしてこの地に完全に移築致しました、と書かれています。古い建物が移築され保存・活用されることは、実に素晴らしいことです。
《参考》「富田屋」跡地
1953年(昭和28)「富士ビル」誕生。1階はダンスホール、2階は飲んで食べられるサパークラブ(パテオ富士)、3階はキャバレー、総合娯楽施設です。「ダンスホール富士」は、1階のほぼ全てが広いダンススペースでした。