近松門左衛門(5) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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法妙寺は「近松寺とも通称し、寺伝によると1562年(永禄5)の創建と伝わる寺院で、元大阪城東辺にあったが、大阪夏・冬の陣後の松平下総守忠明による復興整理のため、谷町筋8丁目寺町(現中央区谷町8丁目)に移転させられ、1967年(昭和42)谷町筋の拡張のため、現在地574-0014大東市寺川4-8-1072-874-6659に移転する。


ほうみ1


谷町に在った法妙寺は近松門左衛門の妻の実家が檀家だった関係で、近松門左衛門の墓が建てられていた。移転に際して、この墓も移転すれば、国史跡の指定が解除になるので、大阪市の要請もあり移転で出来なかったが、その他の近松の一族の墓や過去帳などは現在地に移転した。過去帳などは非公開であるが、数年前に大学の先生が研究のためにと要請があり、開示したことはあるとのことである。近松門左衛門の墓は移転できなかったが、谷町にある墓と同じような墓石を建て供養墓としている。

《参考》2010.7.10大阪日日新聞より

彼の妻だが、名前も経歴もはっきりしたことは分からない。広済寺(兵庫県尼崎市久々知1丁目)の門左衛門の墓は夫妻墓で、併記された「一珠院妙中事信女」が彼女の戒名である。享保19(1734)年2月19日没。夫より10年後の死亡となる。実家は大坂高津(大阪市中央区)「松屋」という道具屋で、芝居の調度類も扱っており、それで知り合ったらしい。門左衛門が友人秋田忍笑にあてた手紙に、「多門(長男)やばば(妻)へ毎度御言伝辱(おことづてかたじけ)なく・・・」との御礼の文言があり、妻子を大切にしていたようだ。年齢は門左衛門とあまり違わなかったらしく、80近くまで生存したと思われる。


ほうみ2


どもは多門・景鯉・太右衛門の3人がいたことは確実で、多門は杉森梅信と名乗る画家。広済寺に彼の描いた「釈尊涅槃図」「遊女図」が秘蔵されている。やはり知人の後藤小左衛門にあてた門左衛門の手紙に、「多門儀も別紙を以て申上ぐ可く候へ共 折節堺にて座敷襖戸等の絵請取候て 五七日彼地に罷有て・・・」と記され、堺の富商に招かれて絵を描く息子自慢が、うかがわれる。景鯉は父と同じく竹本座の座付き作者になり、「平維茂凱陣紅葉」「姫小松子日の遊」などを発表しているが、才能は遠く及ばなかった。彼は前記和田忍笑あてに、「亡父近松平安子の文 紛無正筆 予に裏書きと有ければ・・・」と書いており、父の筆跡鑑定もしたようだ。太右衛門はこれも門左衛門夫妻墓のあった法妙寺(移転。跡地・大阪市中央区谷町8丁目)の過去帳に、「一珠院 松屋太右衛門母」と傍注がついており、母の実家松屋の養子になったことが分かる。寛保年間(1741~43年)には竹本座の座元竹田出雲を手助けし、その後泉州へ引っ越したそうだ。ほかに『反古籠』という古書に、「近松には身体の不自由な子がいた。ある芝居が大当たりして座元が喜び、褒賞金50両を出すと言ったら彼は、そんなものは要らぬ、ただ自分が死んだら、かわいそうなあの子にやってくれと頼んだ」との内容が出る。同書は俗説を集めたものだから信用度は低いが、もしそうなら門左衛門の人柄がよく表れている。50両といえば、彼が座付き作者として受け取る給金の1年分であった。門左衛門は酒好きで遊里に出入りした放蕩者だとの声もあるが、これは武家出身ながら芝居の作者になった自己嫌悪から、おおげさに偽悪ぶって自嘲した言葉を、真に受けた推量だ。たまにはパトロンのお供で歓楽地に入ったかもしれぬが、この給金では大したことができるはずはない。名所旧跡を訪ねる旅の経験もなく、妻子を大切にした中流程度の市井人であったろう。次に彼の兄弟に筆を進める。兄は杉森甚右衛門智義(ともよし)といい、織田長頼に仕えた身分の低い武士で、30代半ばのころ江戸で病死した。妹の喜里は父杉森信義、兄門左衛門とともに京に移住、俳諧に親しみ「錦江」と称する女流俳人になる。ただし俳諧史に残るほどの活躍はしていない。弟の杉森伊恒は織田長頼の侍医平井自安の養子になり、平井要安と名乗って医療を学ぶが養父の医術にあきたらず、京の名医味岡三伯に入門して養家を離れる。さらに不行跡を理由に三伯からも破門され、今度は岡本一抱と名を改めて町医者になる鼻っ柱の強い男だ。彼は現在の家庭医学書のような書物を刊行、医療の普及を図って秘伝を公開したから、医師仲間からも嫌われ孤立する。地域史研究者三善貞司

・・・せっかく「大東市」まで来ましたので、


ほうみ3


来ぶらり四条(歴史とスポーツふれあいセンター・東部図書館)

574-0015大東市野崎3-6-1/072-876-7011

http://www.rekisupo.com/

施設内には「歴史民俗資料館」「四条体育館」「四条グラウンド」「多目的室」などがあります。

《参考》2012.4.16女を楽しくするニュースサイト「ウーマンライフ WEB版」より

http://womanlife.co.jp/topics/k-2361

大東市に新たな多目的施設「来ぶらり四条」が2012年4日にオープンした。同施設館長の笠井敏光さんと、大東市教育委員会職員によると「市立四条小学校が近隣の小学校と統合されましたが、学校はまちの風景のひとつ。跡地を有効利用しようという市長の考えもあり(同施設を)設置致しました」。老朽化した校舎の一部は取り壊したが、使用する校舎は耐震性も踏まえ補強。校舎時代の趣きを残しながら外観を美しくし、内装も一新。「お手洗いもウォシュレットを取り入れるなど、利用される方が気持ちよく使用できるようにしました」。施設も充実している。


ほうみ4


施設内にある大東市立東部図書館は蔵書が8万冊。そのすべてが新刊だ。小説や実用書から、絵本、児童書、マンガ、中高生に人気のライトノベルといった子どもたちが喜ぶ本まで揃い、子ども向けスペースの近くに料理のレシピ本を置くなど、本の配置も配慮されている。「将来的には12万冊まで蔵書を増やす予定です。また、視聴覚コーナーでは映画やアニメなどの名作を揃えています。すでに大人気ですね」。学生たちが自習できる学習コーナーや、読み聞かせなどに便利なおはなしの部屋なども設置。窓から外の光を取り入れ、明るく開放的であり、ファミリーでも個人でも利用したくなる雰囲気だ。「大東市や大阪の歴史を扱った書籍もコーナーを設け、充実させていきます」。同施設は野崎観音が近く、堂山古墳群も徒歩圏内と、大東市の歴史を発信する場としては好立地。今後、歴史に関する書籍を増やしていく予定だ。また、市民団体などが展示などを行える企画展示室(ふれあいルーム)や、講習会や会議などで使用できる多目的室が2部屋あるなど、市民交流の場として利用できるスペースもある。「災害時には地域住民の避難所となり、防災の拠点となりますから、毛布や飲料水などの備蓄もしております」


ほうみ5


施設内には★「歴史民俗資料館も併設している。寝屋川が流れる大東市は古代から水との関わりが深い。そこで「水」をテーマに、旧石器時代から現代までの歴史をわかりやすく紹介している。「展示物のほとんどが発掘された実物です。大東市の土壌は水分が多いので、木製品などが崩れることなく良い状態で発掘されている出土品が多く、他の地域では発掘されていないようなものも少なくありません」。高床式倉庫の戸口装置と考えられ、戸口構造を復元できる国内最古の実物資料である北新町遺跡から出土した戸口装置など、他ではなかなかお目にかかれない実物展示品の数々が並んでいる。「6月30日までは特別展として『堂山古墳群のひみつ』を開催し、40年前に発掘された出土品を展示・紹介しています」。5世紀ごろに造られたと考えられる堂山一号墳から出土した甲冑や刀、土器などは教科書にも登場するほど貴重な歴史的資料。それらは大阪府教育委員会所蔵のため、発掘直後から現在に至るまで大東市民でも目にする機会がほとんどなかった。「今回、初めてご覧になる方が大半だと思います。大東の歴史の知り、郷土の凄さを実感頂いていますし、40年前を思い起こして当時の話で盛り上がる見学者の方もいらっしゃいます」。このほか、体育館やグラウンドも大人が使える練習場としてリニューアル。体育館は大人用にバスケットゴールを付け替え、更衣室を設置。グラウンドも防球ネットを設置し、ナイター設備を導入した。「体育館もグラウンドも小学校の施設を転用していますので、公式試合を行うには難しいと思いますが、仕事帰りなどに練習するには十分な施設となっています。ぜひ、多くの方に申し込んで頂き、利用頂きたいですね」。文化、歴史、そしてスポーツ。大人から子どもまで、個人からファミリー、仲間同士で楽しめる「来ぶらり四条」。ぜひ一度、利用してみてはいかがだろうか。