近松門左衛門(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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※「楠木大明神」が境内にあった「本照寺」の移転時期について、2つの記述資料★[1937年(昭和12]★[1968昭和43)]がありましたので、その詳細について調べることにしました。

結論から申し上げますと、「本照寺」さんの基本データには次のように記されていますので、★[1968昭和43)]が正解のようです


くすの1


光要山★「本照寺日蓮宗身延山派

581-0873八尾市黒谷6-74072-941-7078

http://profile.ameba.jp/pb-039698

https://www.facebook.com/honshoji/info/?tab=page_info

永禄元年(1558年)、大阪城の西、現在の天満駅近くに小庵を創立。昭和43年の都市計画による地下鉄工事のため大阪市南区谷町8-7-3より現在地(八尾)へ移転。大阪平野を望む境内には江戸時代の歌舞伎役者、実川額十郎、芳沢あかねの墓石、大塩平八郎の養子、田坂氏の墓石を有する。

・・・さらに補強資料として、研究誌(「大塩研究29」文:大野正義)の中にも、★[1968昭和43)]と書かれていました。以下、その部分を抜粋します。

http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/kenm6.htm


くすの2


(前略)『大阪府全志』には「谷町八丁目」の小見出しのところで「本照寺は同町の北部東側にあり、光要山と号し、日蓮宗本国寺末にして(中略)永禄元年四月二十八日日沾(にってん)の開創なり」とあり、元は大阪市南区谷町八丁目七-三にあった。しかし「郡市計画による地下鉄工事」(本照寺諸堂落慶記念誌)もあって、昭和43月、郊外の八尾市黒谷に移転した。(後略)

本照寺復興之碑

永録元年開基光要院日沾上人にして創立する寳永二年正徳、寳歴年間に再度の火災に遇い第六世日治上人本堂を再建する。寛政十二年 鎮守堂、鐘楼堂などの三ヵ所布屋久左衛門建立する。更に妙見堂、奥座敷の二ヵ所浅田可兵衛寄付建立する。文化十三年第十七世日沾上人の代に衆檀同心協力して諸堂落成し昭和に及ぶ昭和二十年大東亜戦争戦災に依って鳥居に帰す。★昭和43年第二十九世日宗代に復興委員会を設立、この時都市計画に依って境内地の一部削減され遂に郊外へ移転建築の止むなきに至り當地に移す昭和四十六年本堂、妙見堂庫裡等、再建落成し、十月三日日蓮大聖人降誕七百五十年慶讃記念と共に落成式を行う。第十九世宗鳳記


くすの3


《参考》八尾市観光データベースより

http://www.yaomania.jp/data/InfoDetail.asp?id=1931

★「高安古墳群郡川30号墳」

日蓮宗本照寺の境内にある世紀後半の古墳です。両袖式の石室で、玄室の平面形状が正方形に近い形をしていることが特徴的です。妙道窟としてお祀りされていますので、本照寺に声をかけてから、静かに見学してください。鳥居の奥の扉の中が石室です。

出典:やおの歴史遺産高安古墳群を歩こう(2008八尾市教育委員会)

・・・「楠木大明神」があったお寺で、しかも歌舞伎関係や大塩平八郎にまつわる「墓石」などがあるうえに、「高安古墳群」もあるとなったら、行くしかありませんね(後日)。さて、ついでに「道路工事」関連で調べたことも紹介しておきましょう。


くすの4


御堂筋

大阪の交通の根幹としてだけではなく、近代都市大阪のシンボルとして計画された。既に大正8年から調査研究が開始されていたが、大正10年内閣で認可され、1924(大正13)年に更生第一次都市計画事業として決定した。それまで幅54mほどであった道を、幅44m、延長4370mの道路にし、しかもその下に地下鉄を建設するという大事業であった。1926(大正15)年から地下鉄御堂筋線建設と合わせて拡幅工事が行われた。財政難と用地確保に時間がかかったこと、また技術上の困難が多かったことなどから、翌1937(昭和12)年5月11日に完成し、ほぼ現在の姿となった。



くすの5


大阪国道事務所の歴史

https://www.kkr.mlit.go.jp/osaka/prof/his.html

時代は高度経済成長期を迎え、自動車交通が急激な伸びを見せ始めます。昭和40年(1965年)には、5年後に大阪で万国博覧会を開催することが決定しました。そこで予想される交通混雑に対処するため、直轄国道においても大規模バイパス(枚方、寝屋川、浪速、池田、第二阪和国道)などの事業の推進を図りました。この時期は、大阪国道工事事務所の隆盛期であったとも言えます。1968年(昭和43)には、万博関連事業における事業量の増加と管理業務の複雑化に伴い、二つの事務所へと分離を行いました。こうして誕生したのが、管理を主体とする大阪国道工事事務所と、改築※を担当する浪速国道工事事務所(現 浪速国道事務所)でした。


《参考》日蓮宗「法性寺」/大阪市中央区中寺1-1-32

気ままコーナー http://homepage2.nifty.com/Hossyoji/

昭和13年周防町筋(当時は堀江玉造線)拡幅で境内が削られクスの木が道路の真ん中に残ることになりました。最初は交通の邪魔になるということで何度か取り除きが試みられましたが、このクスの木は切ると祟りがあるという事で道路に残されました。本照寺は戦後八尾に移転し、その跡にマンションが建ちましたが、この通りは正しくは周防町筋といいますが「クスノキ通り」と言って市民に親しまれています。

・・・境内が削られた時期と移転の時期が混同され、2種類の記述がうまれたのでしょう。