街角ミュージアム(32) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・天王寺区役所へは「真田丸ジオラマ」を目的に行きましたが、★「細工谷遺跡」の展示がありましたので、やはりふれておくことにします。

天王寺区役所文化財展示コーナー平成21年2月1日

http://www.occpa.or.jp/ikou/machikado_M/machikado_M10.html

大阪市博物館協会が長年市内各地で行ってきた発掘調査の成果を公開する「街角ミュージアム」の一環として展示しています。天王寺区内には文化財の展示施設がなく、重要な発見が相次いだ細工谷遺跡や上本町遺跡の発掘調査を通じて、地域住民に遺跡と研究成果を紹介します。細工谷遺跡の資料は、奈良時代の井戸から出土した土器と和同開珎の枝銭や富本銭のレプリカを、上本町遺跡の資料は、難波京の条坊上道路に架かる橋の付近から出土した奈良時代の土器などを展示しています。平成22年に上本町遺跡で「難波京条坊」の橋脚跡が発見されたことを契機に、平成23年10月に展示を更新し、最新の成果を反映させました。それに合せて配布用リーフレットの内容も更新しました。天王寺区役所主催で細工谷遺跡や上本町遺跡の見学会(30名程度:平成21・23年度は展示見学も含む)を行い、研究所からは講師を派遣しています


さいく1


《百済尼寺守護地蔵大菩薩「細工谷北向地蔵尊」》

543-0032大阪市天王寺区細工谷1-3聖バルナバ病院南側

細工谷遺跡

http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000008957.html

難波宮の南方km弱にあり、推定朱雀大路跡の東隣に位置する。平成年度の発掘調査によって、難波京内で全く空白であった地域に「百済尼寺」という古代寺院の存在が確認され、全国で初めて和同開珎の枝銭が出土した。枝銭の出土した溝からは、和同銭をはじめとする多量の銅製品・鉄製品、さらに銅板・銅塊・鉛板・方鉛鉱などの金属器素材や鉱滓類といった金属加工に関わる遺物も多量に見つかった。また、別の遺構からは府下で初めての出土となる富本銭が見つかっている。さらに、尼の父の名前を記した木簡や、「百済尼寺」の存在を示す墨書土器の出土が注目される。これらは古代仏教史や難波地域における渡来系氏族のあり方、銭貨の鋳造と流通といった、重要な課題に直結する資料であるといえる。


さいく2


NEWS1997.2.27朝日新聞より

「カネのなる枝」出土、大阪製造途中の和同開珎

大阪府教育委員会は二十六日、製造途中で貨幣同士が木の枝のようにつながった和同開珎が同市天王寺区の細工谷遺跡で発掘されたと発表した。この状態の貨幣は「枝銭(えだぜに)」と呼ばれており、和同開珎では全国初めての出土で、この地域に造幣所があった可能性が出てきた。市教委は日本最古の貨幣の製造方法を確定でき、また当時、一帯で栄えていた「難波京」を解明する資料になる、としている。出土したのは奈良時代の遺構で、そのうち枝銭は直径二・三センチの貨幣六枚が、長さ十一・九センチの棹(さお)部分の両側に並んで付いている。現地説明会は三月一日午後二時から天王寺区細工谷一丁目の同遺構である。

和同開珎

http://www.imes.boj.or.jp/cm/history/7C/

708年(慶雲5)武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父市黒谷)から初めて多量の和銅(にきあかがね、純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出し、朝廷に献上されました。朝廷ではこれを慶事とし年号を「和銅」に改元するとともに、鋳銭司を置き和同開珎が造られたとしています。(続日本紀)その後、760年(天平宝字4)萬年通宝が造られるまで、和同開珎は52年間に渡って(おそらく途中中断を挟んで)造られていたと思われます。

富本銭

http://www.bk.mufg.jp/csr/contribution/kids/gallery/exhibit/fuhonsen/index.html

平成10年の夏、奈良県の飛鳥池遺跡から、約40枚の富本銭が見つかりました。その富本銭は、完成品や失敗作、さらには鋳型や鋳棹などとともに世紀後半の地層から発掘されており、それまで日本最古の貨幣として考えられていた和同開珎)のつくられた708年[和銅元]よりもさらに古いことが、初めて明らかになりました。かつてそこは、藤原京の繁栄を支える官営の工業団地でした。そのなかで富本銭は、仏具や装飾品、武器などとともに製造されていました。以前にも富本銭は、幾つかの発見例はあったものの、数も少なかったために、通貨ではなく副葬品などの「まじない銭」[厭勝銭]だったという説が有力でした。また、これまでは「日本書紀」683年[天武12]の記述にある「今より以後必ず銅銭を用いよ」と書かれている銅銭が一体何を指しているのかが謎でしたが、今回の発見により、それが富本銭である可能性がますます高くなりました。


さいく3


聖バルナバ病院

543-0032大阪市天王寺区細工谷1-3-18/06-6779-1600

http://www.barnaba.or.jp/

1873年(明治6)米国聖公会から派遣されたヘンリー・ラニング医師が米国伝道会社施療院という施療行を始めた。

1883年(明治16)9月★西区川口町8番地に木造二階建ての病院が新築落成されラニング医師はそこの院長となった。この病院が聖バルナバ病院である。

1913年(大正2)ラニング医師が帰国し2代目の院長にラニング医師の息子が就任する。

1923年(大正12)川口町から今と同じ天王寺区細工谷に移転する。

1928年(昭和3)本館がヴォーリズの設計で建設される。

1941年(昭和16)財団法人に組織を改め、7代目にして初の日本人院長に西崎省三が就任する。

1942年(昭和17)助産婦養成所「城南産婆養成所」を併設する。

1943年(昭和18)第二次世界大戦の影響により病院名を「大阪大東亜病院」に改称する。

1945年(昭和20)11月名称を「財団法人 聖バルナバ病院」に戻し、同時に「城南産婆養成所」を「聖バルナバ病院付属助産婦養成所」に改称する。

1952年(昭和27)「聖バルナバ病院付属助産婦養成所」を「聖バルナバ助産婦学院」に改称する。

2005年(平成17)新病院が竣工する。

病院名はキリスト教の聖バルナバ(慰めの子の意味)にちなんでおり、日本聖公会最古の病院でもある。古くから産婦人科や小児科など母子の医療に力を入れており、年間の分娩数は1000件を超える。


さいく4


・・・なんと、ここもヴォーリズ建築だったとは。


さいく5


《参考》百済の地名

http://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000033839.html

東住吉区内での百済の地名は、1889年(明治22)鷹合、砂子、湯谷島、中野の4ケ村が合併して、南百済村とされたことに因みます。現在は南百済小学校や百済公園に百済大橋などに、その地名が残るのみで、行政上での地名はなくなっています。

日本書紀(続)から、百済との関係を探すと、

(1)持統天皇7年(693)紀1月条

第31代百済王・義慈王は唐や新羅に攻められて、大和王朝に救援を依頼し、2人の皇子(豊璋と善光)を派遣した。

(2)斉明天皇6年(660)紀7月条、天智天皇2年(663)紀8月条

百済(豊璋)に援軍を付け、百済遺臣・佐平鬼室福信に迎えられて遠征した(斉明6年紀)が、白村江で惨敗し、百済は滅亡し、豊璋は行方不明(天智2年紀)となる。
(3)天智天皇3年(664)紀3月条

残された善光に難波(天王寺区堂ケ芝★百済寺跡と細工谷★百済尼寺跡)に住まわせる。以後、天武天皇、持統天皇の時期には百済王として、優遇されており、百済人が善光を頼って続々と亡命してきたので、この一帯を百済と呼ばれるに至った。
(4)聖武天皇(続)天平21年(749)紀4月22日条

善光の曾孫・敬福は、大仏建立のために黄金900両を献上し、従5位陸奥守から従3位河内守に4階級も特進したが、一族の住む場所が次第に物流や交通の要所となるに及んで、天皇は敬福一族を枚方の地に移住を命じ、★難波の百済は消滅する。

(5)現在の百済王の末裔

百済王家は平安末期に三松と改姓している(枚方市史、史上の人物、433頁)が、平安期に三松性が現れていないので、この説は歴史学的には認められていない。 しかし、枚方市禁野1丁目に立派な三松家の墓地があり、百済王族末裔の墓であるとされている。 また、明治初期における砲術家や神官となった三松家の4人の経歴を枚方氏史は百済王族の子孫と伝えている。枚方市の百済寺跡は廃墟となっているが、国指定の史跡である。

★大阪市中央区久太郎町

かつて南北久太郎町に分かれていたが、由来としては★百済町と書いたのを後世伝え間違えたという説やその他あり。


・・・「百済」についても詳しく調べてみたいですね。