◆【古墳公園はにわ資料館】◆
629-2411京都府与謝郡与謝野町字明石2341/0772-43-1992
http://www.town-yosano.jp/wwwg/section/detail.jsp?common_id=403
与謝野町立古墳公園は、日本海地域屈指の大型古墳の国史跡「蛭子山(えびすやま)古墳」と国史跡「作山(つくりやま)古墳」を復元整備した歴史公園です。この古代の丘に立つと、なだらかな大江山連峰を背景として、はるか1600年前に隆盛を誇った古代丹後の姿に思いをはせていただけることでしょう。
古墳公園の中心的存在は、1号から8号墳で構成される蛭子山古墳群の盟主的存在である全長145mの1号墳だろう。古墳時代前期後半(4世紀後半)に築造された前方後円墳で、後円部は直径100m、高さ16m、前方部は幅62m、高さ11mを測る。三段に築成された墳丘は葺石が敷かれ、埴輪が並べてあったことが、発掘調査で確認されている。調査は昭和4年(1929)に行われ、翌年の昭和5年には国の史跡に指定された。
蛭子山古墳と通称されている古墳は、実は一列に並んだ8基の古墳から形成されている。その中の1号墳は、丹後三大古墳の一つに数えられ、三大古墳の中では一番古い。1号墳の東に築かれた2号墳は42m規模の方墳である。その他に6基の10m規模の方墳が並んでいる。
加悦古墳公園付近の加悦谷には、野田川を見下ろす丘陵部に非常に多くの古墳がある。加悦谷は幅がかなり広いため、弥生時代以来農耕に適していた。そのため、ここに拠点的な集落ができ、後には大古墳を築くことができる豪族が生まれてきたとされている。蛭子山1号墳は、そうした豪族の首長墓だったと考えられている。
蛭子山1号墳の内部主体は、後円部のほぼ中央に安置されていた花崗岩製の大型舟形石棺である。長さが3.1m、巾が1.1mもある巨大な石棺で、重さが2.5トン~3トンはあろうと推定されている。こうした巨大な花崗岩の石棺を作成できる技術者が当地へやってきて作り上げたものと思われる。現在、墳丘上に覆屋を設けてその中にこの舟形石棺が展示されている。
加悦町古墳公園の中で、蛭子山古墳群とは小さな谷を隔てた隣の丘陵上に、きれいに整備された5基の中型古墳が並んでいる。作山(つくりやま)古墳という。これらの古墳が造られたのは、古墳時代前期後半から中期前半(4世紀後半から5世紀前半)と推定されている。一番西にある5号墳が最初に造られ、その後1号墳~4号墳が順次東に向かって築造された。
珍しいことに1号墳から4号墳はいずれも墳形が異なる。1号墳は全長36m、高さ4mの帆立貝式古墳、2号墳は径28m、高さ3.5mの円墳、3号墳は一辺17m、高さ4mの方墳、4号墳は全長30m、高さ3mの小型前方後円墳である。
加悦町古墳公園の中にある「はにわ資料館」は蛭子山・作山古墳から出土した埴輪の実物資料を展示する目的で設けられた施設である。もちろん、作山5号墳から出土したメノウの首飾りと緑の石のブレスレットのように、埴輪以外の出土品も展示してある。さらに、加悦町の縄文時代から古墳時代にかけて発掘された遺物も展示されている。
興味深かったのは、丹後に特有な「丹後型埴輪」である。一般的な円筒埴輪との違いを示すために、それぞれの埴輪が並べて展示してあった。その他にも、後述の日吉ケ丘墳墓の木棺跡から見つかった朱と緑色凝灰岩製管玉の状態をそのまま残すために、地面を切り取ったまま展示してあった。
・・・「古墳」の次は「SL」だ。