・・・やっぱりコテコテのアート看板について、ふれておきましょう。
【黒門市場】
542-0073大阪市中央区日本橋2-4-1/06-6631-0007
堺筋から一つ東の筋を中心に、千日前通の南側に展開する。大阪においては、東成区の鶴橋市場、豊中市の豊南市場などと並んで食の宝庫として知られる。江戸時代、千日前一帯は『刑場』であった為、多くの罪人がこの地に護送されてきた。天満にある監獄から処刑の決まった罪人達は、道頓堀辺りまで護送され千日前の刑場までつれて行かれる。その時に「圓明寺」にある黒い山門=『黒門』をくぐったのだという。この『黒門』をくぐったら最後生きては戻れないという、罪人にとってはとても恐ろしい門であった。文政期頃からこの辺りで鮮魚商人が見られるようになったが、市場として開設されたのは1902年(明治35)2月で、当初は圓明寺市場と呼ばれたが、黒門市場と通称されるようになり、もっぱら黒門市場の名で知られる。なお、圓明寺は1912年(明治45)1月の大火で焼失し現存しない。
【ポップ工芸】〝目立ってなんぼ〟の立体看板
581-0875八尾市高安町南6-2/072-928-0444
雑多でにぎやかな大阪らしさを象徴する通りといえば、道頓堀が代表的。最近は外国人観光客が多く、彼らの視線をくぎ付けにしているのが巨大看板だ。グリコのネオン看板やかに道楽の動くカニ、づぼらやのちょうちんフグ、金龍ラーメンの躍る龍。どれもサイズが大きいだけでなく、斬新な造形が際立っている。「目立ってなんぼが大阪の文化。2メートルよりも3メートル。同じ作るなら大きい立体看板のほうが目立つ」と話すのは、ポップ工芸の中村雅英社長だ。テレビ番組の発泡スチロール王選手権で優勝した実力の持ち主。道頓堀の金龍ラーメンや元禄寿司、大阪王将などのユニークな造形看板を手がけている。創業は昭和61年。当初は文字のみの平面看板だけだったが、平成8年に金龍ラーメンの巨大な龍を製作したのが転機になった。「無謀な挑戦だったが、試行錯誤を重ね、約20日間で作り上げた」と振り返る。龍の長さは12メートル。より迫力を出すために、店の軒先から顔を突き出し、尻尾は上体から切り離して大きく見せた。これが評判を呼び、7年前から立体造形看板専門に。最近はゆるキャラやオブジェなど地方自治体や海外からの依頼が増えている。八尾市の本社を訪ねると、玄関で大きな恐竜が出迎えてくれた。映画「ウォーキングwithダイナソー」に登場したパキリノサウルスの模型で宣伝用に作ったもの。全長6メートル、高さ2・2メートル、重さは300キロ近くあるという。他にもビリケンさんや平清盛像、マンモスもあり、まるでテーマパークのようだ。作業場では防塵マスクをした社員が黙々と看板製作に取り組んでいた。巨大な発泡スチロールをニクロム線で少しずつカットしたり、ナイロンやすりで削ったり、地道な作業の積み重ねで作品ができあがる。「最初にミニチュアを作り、それを見ながら職人がすべて手作りで行う」と中村社長。発泡スチロールの原型に樹脂を吹き付けて固め、色づけしていく。金龍ラーメンの龍は、FRPという繊維強化プラスチックを使い強度を増している。17年もの間、一度も修繕していないというから驚きだ。加工によって金属や木造に見えるのも職人のなせる技だ。屋根から落っこちそうなショートケーキやすし職人の手と握りずしなど、人の目を引く工夫が看板づくりのコツ。「大阪発のコテコテ看板を世界中に広めたい」と、看板と同じだけ夢もスケールがでかい。
【参考】大阪を知るための100の言葉とモノの世界
第53回/映画「大大阪観光」のラストシーン。「浪花踊り」と道頓堀界隈のネオンサインをコラージュして賑やかなこと。(橋爪節也)
道頓堀の「グリコ」の広告がリニューアルした。モダニズムを謳歌する昭和10(1935)年、戎橋南詰西側に初代の「グリコ」のネオン塔が建設される。高さ33メートル。初代通天閣(約75メートル)の半分にあたる巨大広告塔である。トレードマークの走者と「グリコ」の文字が6色に変化し、毎分19回点滅する花模様の電飾が飾った。戦後は昭和30(1955)年に二代目が再建され、ネオン下の特設ステージで人形のワニがピアノを弾き、人形劇やロカビリー大会が催された。今回の広告が6代目となる。大阪名物の一つであるこの広告は、平成15(2003)年、大阪市都市景観条例による「大阪市指定景観形成物」に指定された。同時指定が、大阪市中央公会堂、大阪城天守閣、通天閣など観光地や、住吉大社、四天王寺、一心寺、お初天神など神社仏閣、道修町の旧小西家住宅、橋梁で桜宮橋、港大橋、菅原城北大橋など、大阪を代表する建造物ばかりである。
今回の6代目は、いままでのネオン管ではなくLED(発光ダイオード)に変わり、動画を映すことも可能となっている。省エネにも貢献するだろう。しかし、注文に応じて作られる職人技や、色彩の鮮やかさと暖かみをもつネオン管には独特の芸術性と郷愁があることも忘れられない。ネオンはフランスで開発され、大正元(1912)年のパリ万博で初公開されたとされる。それから十数年後には、大阪、特に「道頓堀行進曲」に「赤い灯青い灯」と歌われる道頓堀界隈は、ネオンや電球が煌々と光り輝く街となった。昭和12(1937)年の大阪市電気局と産業部制作の映画「大大阪観光」(大阪市指定文化財)には、ぐるぐる回る道頓堀のカフェやキャバレーのネオン広告、明滅する劇場のイルミネーション、情報を伝える電光掲示板(電気科学館と戎橋北詰の2カ所)が映し出されている。現在の交通局と関西電力の源流であるのが大阪市電気局で、映画は電力によるまばゆい光の世界を宣伝する。道頓堀のネオンは、織田作之助の短編「雪の夜」にも登場する。「下味原町から電車に乗り、千日前で降りると、赤玉のムーラン・ルージュが見えた。あたりの空を赤くして、ぐるぐるまわっているのを、地獄の鬼の舌みたいやと、怖れて見上げ」とあるのがそれで、モンマルトルにあるキャバレー「ムーラン・ルージュ」の風車をイメージした道頓堀のキャバレー「赤玉」の風車のネオンである。その動く姿は「大大阪観光」にも登場する。さらに戦後、「鉄道唱歌」を当世風のコミックソングで三木鶏郎作詞作曲の「僕は特急の機関士で」(昭和26年発売)では、歌の出だしで、「ネオン・サイン」の大阪と歌っている。道頓堀と言っても賑わいの中心は戎橋付近にあり、東や西側には往年の勢いは無く、せっかく設けた川辺の遊歩道にも寂しい雰囲気がある。現代美術でも、ダン・フレイヴィン(1933∼1996)のような高名な ライト・アートの作家がいたが、いっそのこと、モダン大阪が誇った絢爛たるネオンの世界を質を高めて再現し、未来に文化財として伝えるためにもアーチストを世界から集め、クリスマスの季節に「世界ネオンアート・フェスティバル」でも開催するのはどうか。国や民族によってネオン管の色感も違うはずである。テーマは「グリコ」のランナーでもいい。遊歩道にずらりとならべて、川面に映る姿を対岸の遊歩道から眺めて道ブラする。新しい大阪名所になりませんやろかと思う2014新年の夢でした。
【鈴木輝生】大阪・道頓堀のグリコ新看板をデザイン
http://www.glico.co.jp/kinenkan/ad/ad.html
鈴木輝生さん(50)。香川県出身。大学でグラフィックデザインを学び、江崎グリコ入社。広告部でパッケージデザインも手がける。大阪一の繁華街、ミナミの名物看板「道頓堀グリコサイン」が2014年10月、ど派手に刷新された。1935年に登場した初代から数えて6代目。高さ約20メートル、幅約10メートルの新看板はLED(発光ダイオード)チップ約14万個を備え、日が暮れると、両手をあげたランナーが世界の名所を走り抜ける映像が楽しめる。社内外100人以上が参加したプロジェクトだった。ひっきりなしに訪れる観光客を見て「最高の作品になった」と実感している。98年に設置された5代目の掛け替え話が持ち上がったのは2011年秋。デザインを任されたが、大阪のシンボルだけに「これまでを超えられるか」と重圧を感じた。「ランナーが大阪城や通天閣だけでなく、ニューヨークの自由の女神や中国の万里の長城など世界をめぐれば、多くの国の人にもっと喜んでもらえる」。看板前で記念撮影する大勢の外国人観光客の姿が新デザインのヒントになった。各国領事館を回って映像の使用許可をもらい、海外の同僚の助けを借りて石畳の形や樹木の配置など映像のリアルさにもこだわった。ミナミの風景に違和感なく映えるように4ミリ四方のLEDチップの間隔を調整するなど、2年間で20回の試作を繰り返して完成させた。「今後も話題を呼ぶ新しいことをしていきたい」。大阪を盛り上げる次の仕掛けを考えている。
・・・この「大阪らしさ」が好きです。やっぱり元気が出てきます。