大和盆地の南西部、西に金剛葛城山地が走り、南に吉野山系と接する奈良県御所市・高取町一帯は、日本文化の発祥の地であるとともに、わが国医薬の成り立ちに深い関わりをもつ、和漢薬のふるさととしてもよく知られています。古い街道を歩くと、白壁土塀の豪壮な家々に薬の看板が掲げられていたり、粉砕機械の音や生薬の香りが漂う、薬づくりの伝統を今に受けつぐ土地柄であることがわかります。そんな昔ながらの街の一角に、大和家庭薬の中でも老舗中の老舗といわれる、680年もの歴史をもつ健胃薬三光丸の製造元「三光丸」があります。国見山の小高い丘陵を切り拓いた、約2万㎡の広大な敷地に、大空へ翼を広げたような寄棟大屋根の本店事務所、工場、倉庫等が周囲の緑と美しく調和し、落ち着いたたたずまいを見せています。敷地内には、くすりの資料館や由緒ある稲荷もあり、明日香からひと足のばした観光スポットとして、見学に訪れるハイカーにも喜ばれています。
【森口ゆたか】
http://yutakamoriguchi.info/index.html
1960年大阪市生まれ。1986年シカゴ美術大学大学院彫刻科修了。1986年より現在に至るまで毎年、各地の画廊・美術館で作品を発表。2011年徳島県立近代美術館にて個展「森口ゆたか・あなたの心に手をさしのべて」を開催。1998年から2年間にわたるイギリス滞在中にホスピタルアートと出会い、以来美術家としての活動と並行して、医療現場でのアートの可能性を探る活動を始める。2004年にNPO法人アーツプロジェクトを設立。これまでに関西を中心とする30カ所以上の病院で、★ホスピタルアートの企画、運営、実施に携わる。NPO法人アーツプロジェクト理事長、京都造形芸術大学こども芸術学科客員教授。
「三光丸」は、鎌倉時代後期の元応年間(西暦1319~)には「紫微垣丸(しびえんがん)という名で造られていました。その後、後醍醐天皇により「三光丸」と名付けられたといいます。三光丸の「三光」は、日(じつ)・月(げつ)・星(せい)の光を意味しています。「星」は「金星」のようです。三光丸クスリ資料館所蔵の古い版木(江戸時代)によれば、越智家第11代の当主、越智家武が北極星の神より霊験を得て「紫微垣丸」の製法を授かり、その後南北朝時代にいたって、後醍醐天皇より太陽・月・星の神から授かった秘方を意味する「三光丸」の名を賜ったとされています。北極星の神から授かったという伝説はともかく、日本中世文化史の研究者である黒田智氏によれば、南北朝時代、後醍醐天皇の周辺には、日・月・星の三光を天皇権威と結び付ける「三光思想」が定着していたようで、有名な古典文学『太平記』にも、後醍醐天皇が倒幕を祈願した際に太陽・月・金星が並んで出現し、それをご覧になった帝が“自分の願いがかなう”と喜ばれた様子が記されています。
【東川和正】
http://www.roy.hi-ho.ne.jp/k-unokawa/index.html
1952年 奈良県御所市に生まれる
1976年 京都府立陶工訓練校修了
1977年 京都市立工業試験所修了
1987年 大阪高島屋にて個展(以後9回開催)国際アジア現代美術展「新人賞」
★2014.4/4(金)~4/6(日)東川和正「玄彩展」於:重要文化財・吉村家住宅
・・・羽曳野市「吉村家」でも展覧会をされていたんですね。
「三光丸」の当主米田家は、中世大和国で勢力をほこった豪族越智氏の流れをくむ家で、越智党内にあって興福寺や金峯山寺、多武峰、春日大社など有力寺社との折衝役をつとめるかたわら、医薬の道を一手に引き受けていました。南北朝時代、越智氏は後醍醐天皇の南朝方に味方しており、後醍醐天皇による“三光丸命名”が実話である可能性は高いと考えています。
◆【三光丸クスリ資料館】◆
大和が日本の薬と医療の発展に果たした役割は、たいへん大きなものでした。古事記、日本書紀にも記された推古天皇の薬猟や、修験者・役小角の薬草利用、奈良の寺院での薬づくりや薬草園整備、全国各地の人々に待たれた薬の配置販売など、いつもの時代でも、大和をおいて薬と薬草利用を語ることはできません。「三光丸クスリ資料館」は、これら先人たちが残した薬草と配置薬のさまざまな知識と知恵を知ると共に、はるか元応年間から製造され、七百年にわたって暮らしのなかで愛され続けてきた三光丸を通じて、配置薬販売の歴史や実際を知ることのできるミュージアムです。見たり聞いたりするだけではなく、薬草の実物や薬づくりの道具にふれたり、薬づくりを体験したり、五感すべてを使って、いろいろな角度から「大和の薬」をお楽しみいただけます。
・・・「展示」はもちろんのこと「建物」「お庭」三拍子そろってアートなミュージアム、さすが「三光丸」さんです。ぜひ訪問してみてください。