室町時代の三重塔は礼堂とともに国の重要文化財です。本瓦葺で高さは23.06mです。奈良時代の高い基壇の上に立っています。高さ20mの大観音石像には圧倒されます。
【藤原京の聖なるライン】
http://www.tsubosaka1300.or.jp/line.html
壷阪寺は、藤原京の中心道路である朱雀大路を拡張した線上の高取山に位置する。この事実を指摘しているのは『奈良平安時代の宮都と文化』(吉川弘文館1988年刊)に書いてある★関西外語大学教授戸田秀典である。この事実を受けて考察を進めたのが、★橿原考古学研究所の泉森皎氏であった。また、岸俊男氏は藤原京の中軸線上に7~8世紀の天武・持統陵、中尾山古墳(文武陵)・高松塚古墳・キトラ古墳など、天武朝の皇族に関係する古墳が多く点在しているという説を主張している。岸説によれば、これを【藤原京の聖なるライン】と呼ぶ。そして泉森氏はその延長上にある壷阪寺の意味も考える必要があると述べている。地理的条件だけでなく、時間的な歴史の流れを捉え、壷阪寺はなぜ大宝3年(西暦703年)に創設されたかを考える必要がある。大宝3年は文武天皇の時代だが、祖母の持統天皇の火葬が執行された年でもある。日本の火葬の始まりは文武天皇4年3月(西暦700年)、飛鳥寺の道昭という僧侶が最初で、道昭は遣唐使として玄奘三蔵にもあったことのある人物。(以下略)
【壷阪霊験記】
http://www.tsubosaka1300.or.jp/report.html
今より三百年以上昔、座頭の沢市は三つ違いの女房お里と貧しいながらも仲睦まじく暮らしていた。沢市は盲目ゆえ琴三味線を教え、お里は内職というなんともつつましい暮らしであった。そんな沢市の胸中に一つ不安が生まれていた。というのも明けの七つ(午前四時)になると、お里が毎晩床を抜け出していたからだ。「もしや好きな男が…」と問いただすと、お里は沢市の目の病が治るよう、この三年もの間欠かさず壷阪寺の観音様に朝詣でをしていると訴える。疑った自分を恥じる沢市はともに観音様にお参りすることにしたが、心の中は盲目がゆえに不遇な暮らしをしているのだと自分を責める。そして、一度お里を家に帰して、お里を自由な身にしてやろうと自分の身を投げてしまうのであった。不吉な予感であわてて戻るお里は、非常な現実に遭遇し、自らも身を投げてしまう。しかし、二人のせつない夫婦愛が、観音様の霊験により奇跡が起こり、沢市・お里は助かり、沢市の目が開眼した。本堂横手には、そのお里、沢市が身を投げた、投身の谷と言い伝えられている谷がある。
【さよ姫伝説】
壷坂の村に住む姫君が、尊い聖の説法にでかけ、親孝行する者には仏神が感応すると聞いた。貧しくて父親の十三回忌に何もできないのを悲しんでいると、たまたま陸奥国の商人が15~16歳の女性を買いに来たので、進んで我が身を売り、そのお金で父親の菩提をとむらうことができた。母を残し、遠い陸奥国まで来た姫君は、15~16歳の女性が必要とされた理由を知る。ここでは毎年、大蛇に人を供えなければならず、ある親が娘の身代わりを求めていたのである。決められた池の中嶋で待つと、やがて長さ10丈(30メートル)もある大蛇が現れた。しかし姫君が御経を読むと、経典読誦と親孝行の功徳により、大蛇は成仏を確信して歓喜し、姫君を乗せて天に昇る。姫君は実は弁財天、大蛇は実は壷坂の観音菩薩であり、末世においても信心があれば二世安楽うたがいなしと結んでいる。
・・・さあ「高取城跡」めざして、山を登ります。
・・・予想以上に、キツイです。
・・・私は、実際に登ってから★「高取城CG再現ムービー」を観たのですが、その時の苦労がよみがえってきて、とても迫力がありました。