郷土ミュージアム(43) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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国指定史跡桜井駅跡」/三島郡島本町桜井一丁目

奈良時代の駅跡。また「太平記」にみられる桜井の子別れの舞台となった地でも知られています。「建武の新政」に不満を持つものたちが足利尊氏のもとに集まり、挙兵しました。これに対し天皇は正成の策を入れず兵庫で迎え撃つことを命じました。正成は少ない手勢を率いて下向し、途中桜井において嫡子正行に「父が討ち死にした後もい族をまとめて戦い続けることが忠孝である」と遺訓して別れました。その後、正成は湊川において壮絶な最期を遂げました。


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桜井駅跡には、陸軍大将乃木希典筆「楠公父子訣別之所」の碑、海軍大将・元帥東郷平八郎筆「子わかれの 松のしづくに 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらゐのさと」(明治天皇御製)の碑、1876年(明治)11月に駐日イギリス大使パークスが楠木正成の精忠に感じて、表に「楠公訣児之処」と刻し、裏に英文で因由を記した碑・大隈重信手植の松などがあります。


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◆34【島本町立歴史文化資料館(旧麗天館)】◆

618-0022三島郡島本町桜井1-3-1075-961-3411

http://www.shimamotocho.jp/syoukai/sizen_bunkazai_siseki/1396270774029.html


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旧麗天館は、昭和16年(1941年)、桜井駅跡の記念館として建てられました。当時、大阪財界の重鎮であった一瀬粂吉氏が当地を訪れた際に、楠公父子の忠孝に感激し、有志と共同で、史跡桜井駅跡の拡張整備事業に尽力し記念館を建設、島本町がその管理にあたりました。正面玄関には近衛文麿の書で「麗天館」と書かれた扁額が掲げられました。戦後は大阪府立青年の家の講堂として開放されていましたが、青年の家閉所後の平成16年、島本町が大阪府から無償譲渡を受け、「島本町立歴史文化資料館」として同16年日に条例制定により設置しました。現在は、施設・設備等の改修を経て、広く住民の皆様をはじめ、島本町を訪れる方々に島本町の歴史と文化を知っていただけるよう、平成20年月12日に資料館として正式開館をしました。


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歴史文化資料館が国登録有形文化財(建造物)に登録されます

平成27年3月13日(金)に開催された国の文化審議会文化財分科会において、全国では171件、大阪府では島本町立歴史文化資料館(旧麗天館)を含む24件の建造物を登録有形文化財(建造物)として登録するよう、文部科学大臣に答申が行われました。近日中に行われる官報告示を経て、正式に登録される予定で、これにより、全国の登録有形文化財(建造物)は、全国で10,197件、大阪府で609件となります。


しまも5


【参考】後鳥羽上皇が再建の「水無瀬離宮」跡か島本で速報展

島本町桜井で、鎌倉時代に後鳥羽上皇が造営した「水無瀬離宮」の一部とみられる遺構とともに、上級貴族が用いたと推定される陶磁器が出土し、調査結果の速報展が2014年9月20日から25日まで、同町桜井の町立歴史文化資料館で開かれる。製薬会社研究棟の建設に伴う試掘調査で見つかり、地名から西浦門前遺跡と命名。過去に遺構は近くの広瀬遺跡でも見つかっていたが、今回は標高約10メートルと高い場所にあり、離宮の再建された建物の一部とみられる。藤原定家の日記「明月記」などによると、後鳥羽上皇は1199年、水無瀬川と淀川の合流付近に離宮を建設したものの、1216年の洪水で離宮の建物が倒れ、高台で再建したとの記述があり、文献資料を裏付けた形。庭園跡やほかの建物跡の一部も確認されたほか、遺構からは、北宋時代の中国で焼かれたとみられる陶磁器も見つかり、当時貴重な品々で上級貴族が使ったとみられる。速報展では、このうち、釉薬の発色が美しい最高級の青磁で、天目茶碗を乗せる天目台の破片や、鉄釉を使い花紋を表現した広口壺の破片などを並べる。このほか、後鳥羽上皇が生きた時代に用いられたとされる蓮華紋の瓦なども展示予定。23日午前10時と同1050分から、資料館近くの町ふれあいセンターで調査員によるスライドショーもある。