紡績・赤煉瓦建築(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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【参考】菊池恭三

日本紡績の発祥は東京紡績と異なり、その発足当時から摂津紡績、平野紡績と並んで菊池恭三の技術指導を受けた会社である。またその資本関係をみても株主は類似した顔ぶれであった。


れん1


日本紡績の沿革をたどると、明治25年に大阪において2つのガス糸紡績会社の設立が計画された。1つは大阪瓦斯糸紡績所(平野紡績2代目社長金沢仁兵衛ほかの発起人)であり、1つは大阪瓦斯糸紡績会社(大阪商業会議所副会頭となった近藤喜禄ほかの発起人)であった。この2つのガス糸紡績会社の発起人が合議の結果合体して、26年2月7日に創立したのが日本紡績である。発起人は2代目伊藤九兵衛(摂津紡績取締役、伊藤萬助家の本家)ら85名であった。設立事務所には金沢仁兵衛の借家があてられたが、ここには日本紡績とほぼ同時に発足した日本綿花の創立事務所も同居していた。日本紡績と日本綿花の経営陣は重複しており、姉妹会社として発足したものである。とくに尼崎、平野、摂津の3紡績からは発起人中14名が参加してその過半数を占めていた。当時菊池恭三は平野、尼崎、摂津の3社の技術部を担当するとともに、日本紡績の創立にも最初から顧問の名義で関与していた。明治29年3月、当社の取締役技師長となっていた菊池が第2回の欧米視察に赴いた時、日本紡績のガス糸紡出の研究もその任務の一つであった。菊池は帰国後31年2月から日本紡績の技術指導に当たり、33年1月に同社の取締役に就任している。


れん2


平野紡績

平野紡績は、明治20年6月7日に創立された尼崎、摂津の両紡績の先輩会社である。菊池恭三を技師長として招致し渡英させるなど先進会社であり、一時は逆に摂津紡績を合併する計画が進められた経緯があるくらいである。また平野紡績は分工場として、大阪市都島区野田町15番地に野田工場を所有していた。野田工場の前身は野田紡績株式会社である。野田紡績は明治251225日、大和の木綿問屋の一族を中心として、資本金25万円で設立され、敷地面積597232、精紡機1万752錘の会社であったが、操業後経営がうまくいかず、31年4月15日解散し、平野紡績に譲渡されたものである。平野紡績の野田分工場は後に大日本紡績野田工場として存続したが、その敷地が狭いうえに周囲の都市化が進み、拡張の余地もなかった。たまたま青島大康紗廠の設立計画が進められていたところから、大正9年8月15日閉鎖を決定し、その紡機一切は青島工場へ移駐された。


れん3


平野紡績は前述のように、初代社長14代末吉勘四郎(末吉氏は末吉船で知られた御朱印船の所有者で、平野郷きっての名門)の後を、大阪市西区靱の有力者金沢甚兵衛が継ぎ、明治3111月にはその義弟である金沢仁作が社長となっていた。平野紡績は20年代には業界の有力会社であり、その頃取締役であった金沢仁作は日清戦争後の2810月には大阪紡績の取締役であった山辺丈夫とともに紡聨から派遣されて、中国進出の状況視察のため上海に渡っている。日清講和条約により日本の製造業が清国へ進出可能となりその調査に赴いたのである。日本の紡績の中国進出の第一歩がこの時に始まったということができる。しかし平野紡績のその後の営業は振るわず、3510月、3代目社長金沢仁作は摂津紡績との合併の道を選んだのである。この年の前年には菊池恭三はすでに尼崎紡績の社長に就任しており、また摂津紡績においては常務取締役の地位にあった。かつて志をいだいて入社した平野紡績の合併は菊池にとってその感慨はひとしおであったと思われる。


れん4


・・・「大念佛寺」も見えていますねえ。予想をはるかに超える資料の数々に、もう感激です。「立馬印」もありました。


れん5


ユニチカ・フェニックス(バスケットボール)

1949年に大日本紡績(ニチボー)本店女子バスケットボール同好会として大阪市で創部。全日本実業団で3位に入る。1954年に平野区平野工場に統合されニチボー平野に改称。1956年に監督就任した女子バスケ界の名将尾崎正敏の指導により1958年のオールジャパンで初優勝、1965年からは8連覇を成し遂げるとともに、1967年創設の日本リーグでも第1回での優勝以来7連覇を達成(リーグ連覇記録は1998年にシャンソン化粧品に更新されるが、オールジャパン連覇記録は現在も破られていない)。その間、1968年まで「国内公式戦171連勝」を記録し、貝塚バレーボール部とともにニチボーの名を知らしめることになる。特に1971年日本リーグではベスト5を独占した。国際大会でも1967年より朴正煕杯争奪東南アジア女子バスケットボール選手権大会に単独チームとして出場し、1969年の同大会で優勝した。1969年にニチボーが合併によりユニチカに変わると平野工場は閉鎖され、バスケ部は三島郡島本町の山崎工場に移転し、「ユニチカ山崎」に変更。1977年にユニチカ山崎工場が大阪染工に統合されたことに伴い「ユニチカ」となる。1975年の世界選手権では尾崎監督を始め、ユニチカの選手が主力として活躍し銀メダル獲得に貢献した。女子日本リーグ7連覇後は日立戸塚、第一勧銀が力を付けてきたもののこれらと並んで3強として君臨していた。だが、尾崎が監督を退任して現場を離れると、共同石油、シャンソン化粧品といった新興勢力の台頭にも押され、1980年のオールジャパンを最後にタイトルから遠のく。その後も低迷は続き、遂には実業団リーグ降格となる。1991年にバレーボール部が「ユニチカ・フェニックス」を愛称としたのに連動し、バスケットボール部も「フェニックス」とした。この年、全日本実業団で優勝。翌年には日本リーグ2部を制し、入れ替え戦でも富士通を下し1部復帰を果たす。1998年、かつてユニチカ宇治(旧日本レイヨン、1976年解散)が本拠地としていた京都府宇治市に移転。長引く景気低迷のため1999年のWリーグへのリニューアルを前にしてトップリーグから撤退(翌年にはバレーボール部が休部となり、東レに移管された)。以降は京都府の大会に参加し、2000年・2001年の2年連続でオールジャパン出場も果たしたが、2004年廃部。獲得した全国タイトル数は計33回で、JX-ENEOSサンフラワーズ(旧共同石油)についで2番目に多い。