高野山(2)
前回、この「千石橋」で区切りにしたかと言いますと、これから先の「作水坂」は街道一の急坂であり、覚悟と時間を必要とするからなのです。今回は早朝から自宅を出発し、途中あまり寄り道せずに、この再出発点「二里石」までやってきました。
高齢の参拝者の背中を土地の子どもたちが押して、駄賃をもらったというほどの急坂。高野山へ登る途中の良寛さんは「さみつ坂といふところに里の童の青竹の杖をきりて売りゐたりければ」・「黄金もて いざ杖買わん さみつ坂」と詠みました。今も坂沿いに、良寛の杖になった何代目かの竹が育っているかもしれませんね。橋周辺の秋を満喫してから、一気に登り始めました。
登り切った所に「第五の地蔵」が祭られていました。
高野六地蔵堂の最後の「第六の地蔵」は、通り過ぎてしまいました。
高野山のすぐ手前の作水峠で日本最後の仇討が行なわれました。なぜ日本最後かというと、この仇討によって仇討禁止が法制化されたからです。地名をとって「神谷の仇討」と呼ばれます。
◎神谷の仇討の経緯
1862年(文久2)、播州(兵庫県)赤穂藩の卒族・西川升吉が、尊王攘夷運動と結びつけ参政の村上真輔を打つ。村上家は、西川が私怨を晴らすため大義を騙り綱紀厳しき村上を斬ったと藩に訴えるも、村上家は閉門となり、西川家は咎めなし。村上家では親族が集まり、さまざまな家名回復のための策を練り、実行するも藩の壁は厚い。
1871年(明治4)、藩は仇討の気配あるを察知、西川一派を殺生禁止の高野山へ送り、ほとぼりをさまそうと画策。高野山では殺生は法度。村上側が高野へ行く前に討つことを決心。
1972年(明治5)2月、播州から高野に向けて西川一派が出発。このあたりの動きはすべて村上方の監視下にあった。村上一行は2月28日に河内長野・油屋旅館に泊まり、29日中屋旅館泊。翌30日朝、作水峠で待ち伏せをして、西川一派7名を討ち果たす。
1973年(明治6)、明治政府より仇討ち禁止令が出される。
・・・周辺を散策していると、地元の方の車が通りかかって「この辺をうろうろしているとマツタケ泥棒と疑われて捕まるで」と注意してくださいました。
■奈良県吉野郡野迫川村(のせがわむら)
奈良県の自治体(市町村)の中では最も人口が少なく、近畿地方の自治体の中でも和歌山県東牟婁郡北山村に次いで人口が少ない。山間部に位置するため、多くの道路が狭隘で交通が脆弱であり村へのアクセスが困難である。大阪方面への最短経路は和歌山県伊都郡の高野山から高野龍神スカイライン(国道371号)経由であり、五條市など奈良県内からは国道168号から県道を経由してアクセス可能であるが、一部に狭隘区間があることから走行時には注意が必要である。そのため、奈良県の村でありながら他の同県の市町村よりも西に隣接する和歌山県橋本市、伊都郡九度山町・高野町や大阪府河内長野市との繋がりが比較的強い。そして・・・純国産の貴重な松茸、特に野迫川松茸は、市場に出回らない高級品だそうです。
・・・たぶん野迫川村だったと思うのですが、その昔、友人に誘われて民宿に泊まって松茸を食べたことを思い出しました。(もう一つの目的は「徹マン」でした)