古市古墳群 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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53松川塚古墳


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-まつ1


とうとう古市古墳群巡りも最終回となりました。案内地図をもとに、とにかく全部回ってみようと思い立ち・・・


藤井寺市古室2丁目、史跡指定がされていないため駐車場横の雑木林という状態です。一辺20mの方墳で、現在は埋没していますが、推定幅6mの周壕をもつことが判明しています。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-まつ2


見落としていたり、気づかなかったり・・・


54宮の南塚古墳

藤井寺市国府1丁目名前のとおり、国府八幡神社のすぐ南にあります。その間の細い道路と神社の一部も、かつてはこの古墳の一部だったのです。北側の3分の1ほど神社と道路になってしまいました。本来円墳だったものが、今は半円に近い形になっています。宮の南塚古墳は、市野山古墳(允恭天皇陵)外堤のすぐ東にあり、衣縫塚古墳とともに、市野山古墳の陪冢に治定されています。市野山古墳の周りには、ほかにも陪冢とみられる小古墳がいくつもありましたが、戦後の都市化に伴う建設工事で次々と姿を消していきました。残った二つの古墳だけが陪冢に治定されました。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-まつ3


これまで何度も通った道なのに・・・


55サンド山古墳

蕃所山古墳の北約110メートルには、藤ケ丘会館に接してサンド山古墳があります。この古墳は墳丘が変形しており、本来の形は不明です。現状で長さ30メートル、高さ3メートルの大きさがあります。そして南西200メートルには、直径15~20メートルの円墳、サンド山2号墳が発掘調査で見つかっています。また、その東側には、直径22メートルの円墳、藤ノ森古墳と、墳丘の長さ53メートルの前方後円墳、蕃上山古墳のあったことが知られています。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-まつ4


このような住宅地内の保存は感動ものです。


56蕃所山古墳

藤井寺市の南部、藤ケ丘2丁目の住宅街の中に、まわりを道路で円形に囲まれた小さな山があります。これが蕃所山古墳で、モッコ塚とも呼ばれています。この古墳は、周辺の住宅街ができるときに現在のような形で墳丘が保存されました。直径22メートル、高さ3メートルの円墳ですが、本来はもう少し大きかったと思われます。墳丘のまわりに濠があったかどうかは分かりません。隣接する道路の一部に深い掘り込みがあったことが立会調査で確認されています。あるいはこの掘り込みが濠の一部である可能性も考えられますが、断言はできません。埴輪や葺石は確認されていません。これらの古墳は5世紀~6世紀前半に造られました。古市古墳群内では小型の古墳ですが、大型前方後円墳にともなう陪塚ではなく、それら自身で一定のまとまりをもって限られた範囲内に造られています。古市古墳群内の大型や中型の前方後円墳のはざまで、複数の小型の古墳が一定のまとまりをもって限られた範囲内に造られている例は、ほかに林・小山地区周辺などでも発掘調査で確認されています。このような小型の古墳は、前方後円墳を頂点とする古墳の形と大きさに表わされた身分秩序に組み込まれていることは確かです。しかし、陪塚としてではなく、それら自身で一定のまとまりをもっている面などを重視すれば、それまでの身分秩序だけでは捉えきれない、新たな動きがあったと考えられます。蕃所山古墳に葬られた人物も、古墳時代の社会で、それまでの身分秩序の中にありながら、それを徐々に揺さぶり始めた一人だったのかもしれません。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-まつ5


ここは見つかりにくかったのではなく、本当に行き忘れていたのです。


57割塚古墳

大形の前方後円墳である岡ミサンザイ古墳の北側に鉢塚古墳が、また東側には割塚古墳があります。前者は国の史跡に、後者は大阪府の史跡に指定されています。割塚古墳は、岡ミサンザイ古墳の東側約50メートルのところにある一辺30メートルの方墳です。この古墳も内容はよく分かっていませんが、4世紀末から5世紀初めに造られたと考えられています。開発などのために消滅してしまいましたが、岡ミサンザイ古墳の周囲には、ほかに、落塚古墳という径20メートルの円墳と、岡古墳という一辺33メートルの方墳がありました。前者は5世紀末から6世紀初めに、後者は4世紀末から5世紀初めに造られたものと思われます。岡ミサンザイ古墳と鉢塚古墳、落塚古墳は同時期に造られたものなのです。また、割塚古墳と岡古墳はそれよりも1世紀も前に造られたことになります。つまり、同じように岡ミサンザイ古墳の周囲にある中形や小形の古墳でも、それと同時期に造られたものとそうでないものとがあるのです。岡ミサンザイ古墳と同時期に造られた鉢塚古墳と落塚古墳は、同古墳の陪塚として理解できます。そして、両古墳に葬られた人物は、岡ミサンザイ古墳に葬られた人物と生前に密接な関係があったことが分かります。これに対して、割塚古墳と岡古墳は周辺に同時期の前方後円墳が存在せず、陪塚として造られたものではないのです。しかし、方墳という墳形からも分かるように、前方後円墳を頂点とした、墳丘の形によって表現された身分の枠組みに組み込まれていたということ想定できます。


・・・古市古墳群(完)。