古市古墳群 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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01津堂城山古墳


第1番は、府道2号線(旧中央環状線)に接しており、もっともわかりやすく、古市古墳群の最北に位置する「津堂城山古墳」です。


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4世紀後半に、古市古墳群の中で最初に造られた前方後円墳です。この古墳の位置は、羽曳野丘陵の低位段丘上にあり、古市古墳群の中では最も北側にある古墳です。墳丘の長さ208m、前方部の幅121m、後円部の直径128mで、くびれの部分には造出し(つくりだし)と呼ばれる出っ張りがあります。「城山」という名は、中世の室町時代にこの古墳が城として利用されたことによると考えられますが、城山とい名の古墳は全国にいくつもあり、区別するために所在地の地区名(旧村名)である「津堂」の名を付けて呼んでいます現存するのは、墳丘と内濠だけですが、これまでの調査や研究により、二重の濠と堤をめぐらせた総長436mにもおよぶ巨大古墳であったことが分かっています。


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これは、古市古墳群の中では、誉田御廟山古墳、仲津山古墳に次ぐ、三番目の大きさです。同じ時期に造られた古墳の中では、最も大きなものの一つでもあります。戦後、航空写真による古墳の研究を進めていた末永雅雄氏が、この古墳の周濠の外側に、幅80mにもおよぶ付属地があることを指摘し、この部分を「周庭帯」と命名しました。この周庭帯の部分が、後の調査により、内濠の堤と外濠、さらに外濠の堤であたことが分かってきたのです。現在の写真や地図からも、その周庭帯の形状を見つけることができますが、住宅地化する以前の航空写真を見ると、はっきりとその姿を見ることができます。ぎりぎりで古墳に接して造られたと思われていた府道は、実は古墳の中を縦断していたことがわかります。複数の堤と周濠が墳丘を囲む形は、これ以後の大王級の古墳に多く見られる特徴で、津堂城山古墳が最古の例です。他の大型前方後円墳の多くが陵墓に治定されている中、津堂城山古墳は後円部頂だけが陵墓参考地に治定されているだけなので、それ以外の部分を考古学の専門家が発掘調査をすることができます。この古墳以後の前方後円墳の発展の仕方を研究する上で、津堂城山古墳は大変貴重な存在であると言えるでしょう。


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大王級の前方後円墳で、石槨や石棺の様子が調査され、写真が残っているという例は、この津堂城山古墳だけなのです。一方で、陪冢と考えられる小古墳が周辺に一つも存在しないという、このクラスの大王級古墳としては、逆に珍しいと思える要素も見られます。この古墳以後、5世紀にかけて造られた大王級の大型前方後円墳には、陪冢と考えられる古墳が必ず存在しています。この点から津堂城山古墳は大王古墳ではないとする説もかなり有力です。そもそも、「古事記」や「日本書紀」、「延喜式」に書かれている天皇陵の中に、津堂城山古墳の築造時期にあてはまる天皇で該当する場所の記述はないのです。この津堂城山古墳は、実は明治が終わる頃までは、前方後円墳であること自体が地元の人々にもよく認識されていなかったようです。名前のとおり、戦国時代に三好氏の砦として城が築かれたことで墳丘の形が大きく崩れてしまい、見た目にはただの小山にしか見えない姿になってしまいました。


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しかも、周濠部分の多くは農地として利用されていて、残った部分もよくある小さな池にしか見えない様子でした。全体が大きいために、横から見ただけでは古墳だとは気づきにくい姿です。いつしか、ここが古墳であったことさえ忘れ去られていったようです。明治時代の中頃に作成された地籍図を見ると、古墳域内の土地には城跡であったことを示す小字(こあざ)名が載っています。「本丸・二の丸・三の丸・四の丸」です。つまり、この場所は、古墳としてではなく、「城跡」のままそのイメージが長年伝承されてきたことがわかります。航空機のない時代、上空から見て前方後円墳であることを知る手立てはなく、農地や子どもの遊ぶ山として利用されてきました。



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また、ここに津堂八幡神社が置かれて、お参りや祭りの場所ともなりました。そんなことから、明治の初めに全国の陵墓調査がおこなわれた時にも、きちんとした調査対象にはならなかったようで、明治18年測量の2万分の1仮製地形図では、前方後円墳どころか、ただの草地としての表記しかありません。古墳として認識されていなかったのです。次の明治41年測量地図でも同じです。


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