吉野(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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吉野(1)



奈良県の中央部・吉野郡吉野町にある吉野川(紀の川)南岸から大峰山脈へと南北に続く約キロメートルに及ぶ尾根続きの山稜の総称、または金峯山寺を中心とした社寺が点在する地域の広域地名で


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今年のサクラも最後だろうと・・・「竹内街道」に続いて「吉野山」へとやってきた。


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吉野ロープウェイ

吉野大峯ケーブル自動車が運営する索道(ロープウェイ)である。現存する日本最古の索道路線でもある。正式名称は吉野山旅客索道で、吉野山ロープウェイともいう。近鉄吉野線の前身である吉野鉄道が吉野駅までを開業させた翌年、内田政男と地元の有志が1929年(昭和4年)3月12日に千本口 - 吉野山間を開通させた。搬器や鋼索などは更新されているが、支柱は1928年(昭和3年)に建築されたものをそのまま使用している。その方式もRA型ロックドレールロープ式と、今となっては懐古的なものが更新されずに残っている。なお、吉野山に住む住民の足でもあるため、定期乗車券が販売される。ただし運行時間は短い。日本機械学会により2012年度の機械遺産に認定された。開業当初は20名乗りの搬器(ゴンドラ)を使用していたが、1966年(昭和41年)からは28名乗りの3代目のゴンドラ「かえで」「さくら」の2台で運行している。現代のロープウェイでは珍しく客室内が階段状になっているが、これは建設時搬器懸吊装置の技術開発が未熟だった頃の名残であり、その後の機材更新にも引き継がれた点では索道発達の歴史を物語る存在でもある。カラーリングは近鉄特急に似ている。・・・「こんな色なので、近鉄が運営していると間違えられるんですよ。」と駅員さんが話しておられました。



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日本機械学会「機械遺産」第52号/MECHANICAL ENGINEERING HERITAGE NO.52


吉野山ロープウェイは、旅客運送用として1929(昭和4)年3月12日より「千本口」駅と「吉野山」駅間の全長349メートル、高低差103メートルに搬器(ゴンドラ)2台で運行開始した、国内現役最古のロープウェイであり、架設当初の形態を現在までよく保つものとしては世界最古級である。技術的特徴として、2本の支索の間に走行機を配したえい索2本、平衡索2本による4線交走式機構が採用された(現在は平衡索を1本にまとめた3線交走式で運行)。また、停車場や支柱の大型化を抑えるため勾配にあわせた搬器形状が採用されている。さらに、戦後主流となるロックド・コイル・ロープと呼ばれる表面を平滑化したロープの先進的使用もみられる。架線支持部材や支柱は、架設した安全索道商会(現安全索道)の保守により、80年以上経過した現在でも現役であり、これらは当時のわが国の材料力学、金属材料技術の優秀さを示す証といえる。このロープウェイは、創業者内田政男の「地元のために人を運ぶロープウェイを作りたい」との想いから、地元有志と共に苦労して実現化し、戦時下の金属供出令の中でも住民の交通手段を守りぬいた。吉野山ロープウェイは、わが国有数の桜の名所である吉野山と世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の出発点に位置する交通機関として今日なお、多くの観光客に利用されている。



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大正13年(1924年)12月には国の名勝・史跡に指定され、昭和11年(1936年)2月 には吉野熊野国立公園に指定されました。また平成16年(2004年)7月には吉野山・高野山から熊野にかけての霊場と参詣道が『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録された。平成2年(1990年)には日本さくら名所100選に選定されました。吉野山は平安時代頃から桜が植え続けられてきました。特に桜が数多く集まる所があり、いずれも一目千本と呼ばれ山下の北から山上の南へと順に下千本・中千本・上千本・奥千本と呼ばれています。植えられている桜の種類は、ほとんどが白山桜(シロヤマザクラ)であり、その数は約3万本にも及びます。これらの桜は、4月初旬から末にかけて、山下の下千本から順に山上へと開花していきます。この時期の吉野山は・・・花見客で大変賑わいます。


・・・「吉野神宮」へは帰りに寄ることにして、とにかく上へ上へ。



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吉野山に桜が多いのは、桜が蔵王権現の神木であるとされたことによります。修験道の開祖とされる役小角は、金峰山(現在の大峰山系)で修行を積み、その結果、金剛蔵王菩薩が出現して、これを感得し蔵王権現像を彫ったとされます。その時に用いられた木材が桜樹であったそうです。以降、行者達は桜材を使い権現を彫刻し、これを祀る習わしとなりました。これより桜は神木となり、桜の枯れ木といえども薪にさえせず、一枝を折る者は指一本を切るといったような厳しい信仰が厳守されたといいます。そのため蔵王権現に祈願する際には、神木とされる桜の苗を寄進するのが最善の供養となる風習が起こり、平安時代の頃から多くの桜が植えられるようになりました。また大海人王子(のちの天武天皇)が、吉野の寒中で、庭の桜が満開の夢を見て、これが動機となって天下を定めたので、桜は霊木であり神木であるとされ、桜の愛護が始まったとも伝えられています