前回の記事で、「水をしょっちゅうやりすぎると根が張らずに弱くなる」というようなことを書いた。これについて、僕の友人である浅井さんがコメントをくれた。
「私もこの春、農業ビギナーで苗からいろいろ育てました。ある程度になるまではけっこう水やって、なんとなくしっかりしてきたな、とカンで思ったら、水をやるのを減らして、元気がなさそうに見えたら、多めに水やりする感じにしました。そういう苗は元気に育った気がしました。本来は「育てる」というより「手入れ」みたいな考えのほうがいいなという実感でした(^^)」
浅井さんは僕のような軟弱プランター栽培ではなく(笑)、ちゃんと自分の畑で栽培をしている先達である。実は僕も前回、浅井さんがくれたコメントと同じようなことをことを考えていて、それを見透かしたようなメッセージに、さすがだなあと思った次第である。浅井さんは医者のたまごで、農業を医学的な観点からも分析できる人だ。もしこのブログが書籍化されたら、浅井さんに解説を書いてもらおうと思っている。
さらに、浅井さんはこのブログが書籍化された時のタイトルも考えてくれた。題して『ほうれん草を育てながら哲学してみた』。めっちゃええやん、と思ってさっそくこのブログにも採用させていただくことにした。どうでしょう、かなりよくないですか?(笑)みなさんもぜひ『○○しながら哲学してみた』みたいなので何か書かれてみてはいかがでしょうか。ふだん何気なくやっている生活の行為が、実はすごく深遠な意味を持っていた……みたいなことにすると、ちょっとだけ毎日が楽しくなるかもしれません。
浅井さんが指摘してくれた、「しっかりするまではしっかり水をやって、しっかりしてきたら面倒を見すぎず「手入れ」にとどめる」という考え方も、やっぱり人間の育ち方に通じるものがあると思う。これは僕の勝手なイメージだが、生まれてきて物心つくまでの間というのは、赤ん坊にとって、言わば「世界に対する第一印象を育む期間」のようなものではないだろうか。そしてみなさんご存知のように、第一印象はけっこう後を引くものである。最初に「何かイヤだな」と思った人、場所、モノが、途中から好きになることはあまりない。でももちろんその印象が逆転することもあって、その時には自分でもびっくりするくらいその対象が好きになる、ということもある。このへんが第一印象の面白いところかもしれない。
でも第一印象は基本的にはいいに越したことはないだろう。赤ん坊が生まれてきた時に、この世界に対して「なんか快適な場所やわ〜」「なんか楽しい場所やわ〜」と感じることができたら、その後もそう思いながら生きていきやすいに違いない。逆にこの世界に対して最初に持つ印象が「なんか辛いわ〜」「なんか苦しいわ〜」というものだったら、その後ずっと「とっとと引退したい……」という気持ちを抱き続けることになるかもしれない。
でも一方で、世界に対して悪印象を持っていた人が、「いや、実は世界ってめっちゃええやん!めっちゃ楽しい場所やったんや!」となったら、これはめちゃくちゃ強い気がする。しかもそういう人は、その悪印象から好印象へのプロセスを実際に経験しているわけだから、そのプロセスを経験として他人に伝えることができる。それは多くの人を救う力になると思う。僕はこれを勝手に「菩薩力」と呼んでいる(笑)。しかも「世界をよりよいものにしたい」という思いは、「この世界、このままじゃアカンやろ」という気持ちがどこかになければ、きっと生まれてこないはずである。
もちろん、最初から「世界サイコー」と思っている人も、その天性の朗らかさで多くの人を救うことができるだろう。「世界ツライ……」と思っている人が「世界サイコー」と思っている人と出会って、「そうなん?なんで?」と思いつつ関わっている間に、「世界サイコー」の視点をいつの間にか身に付けている……というようなこともあるだろう。個人的には、「世界サイコー」と「世界ツライ……」の両方の視点を常に持ち合わせていたいと思っているけれども、やっぱりツライよりは楽しい方が僕は好きだ。でもツライを知っている楽しさと、ツライを知らない楽しさは全然その質が異なると思う。そこに人間の深みの違いが現れてくるのかもしれない。
ちなみにウチのほうれん草は少ししっかりしてきた気がするので、もうほとんど放置プレーである。やっていることと言えば、朝と夕方にプランターを日当りのいい場所に移動させていることくらいである。僕自身が基本的に放置プレーで育てられてきたので、放置プレーで育てる方が得意なのかもしれない。「スポーツ報知」という新聞があるが、これの前身が「報知新聞」だという。もしも「放置新聞」という世界の放置プレーを紹介する新聞があったら、僕は間違いなく定期購読するだろう。いや、嘘です。
杉原学のmy Pick