ほうれん草を育てながら哲学してみた(8)「根っこを強くする水やりの考え方」 | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」

ほうれん草栽培の悩みどころのひとつは、水やりのタイミングだろう。いろいろ調べてみると、たいてい、「土の表面が乾いてきたら、水をたっぷりあげてください」というようなことになっている。でもその「土の表面が乾いてきたタイミング」というのがイマイチよくわからないのである(笑)。本当にカラッカラに乾いた時なのか、ちょっとサラッとしてきたかな、というタイミングなのか……。未だに全然わからないが、僕の場合、なんとなく「乾いたな」と思った時に水をやることにしている(笑)。日数で言うと、だいたい10日おきくらいだろうか。

作物を大切に育てようと思えば思うほど、水やりの回数は増えがちである。だがこれがよくないらしい。栽培の失敗は、水が足りなくて枯れてしまうよりも、水をやりすぎて根腐れなどを起こして失敗するパターンの方が多いようだ。これはとてもよくわかる。特に初めて野菜を育てる場合などは、大切にしようという意識が強くなって、ついつい「何かしてあげよう」と思いがちである。でもそれが裏目に出る。

「銀座まるかん」の創業者として知られる齋藤一人さんが、この水やりについて面白いことを言っていた。僕の記憶なので正確ではないけれども、確かこんな話である。植物はずっと水を与えられないと、何とかして水分を得ようと、どんどん根っこを伸ばしていく。土の中に根を張り巡らせる。そうすると、台風が来てもその強い根っこで耐えることができるし、干ばつにも耐えられる強くてしぶとい植物に生長する。一方で、しょっちゅう水を与えられた植物は、わざわざ頑張って根っこを伸ばす必要がない。そうすると大地にしっかり根を張らないから、台風なんかが来たら一瞬で吹き飛ばされてしまう弱い植物になる。そしてそれは人間だって同じなんだ、というわけである。これもまた、前回、前々回で書いた「困難の捉え方」に通じる話である。

思想家のルソーは、その有名な著書『エミール』の中で、「子どもを確実に不幸にする育て方は、欲しいものをいくらでも与えてやることである」というようなことを言っている。確かにそうすれば、自分の思い通りにいかない壁にぶち当たったときにも、それを自分で何とかしようという発想自体が生まれてこなくなるだろう。これは植物で言う「根腐れ」のような状態かもしれない。

よくよく考えてみれば、「便利な社会」というのも、一面においてこうした「根腐れ」を起こしやすい状態と言えるだろう。これまで時間をかけて歩いていた道のりが、電車や飛行機でヒョイっと行けるようになった。わざわざ井戸で水を汲まなくても、蛇口をヒョイっとひねれば、すぐに水が出る。それはとてもありがたいことだけれども、一方で大きな災害に見舞われた時に、僕らは途方に暮れることになる。でも、「自分の足で歩く」「自分の手で水を汲む」ということをやってきた人間は、どこをどう歩けば目的地に辿り着けるかを知っているし、どこから水が湧いていて、それをどうすれば汲み取ることができるかを知っている。それは自然と直接的に関わっているということだろうし、「生きる」ということの本質により近い場所にいる、とも言えるような気がする。

僕の未熟なほうれん草栽培には、そうした「生きる」ことの本質に近づきたいという、ささやかな願いが込められてもいる。ほうれん草は、スーパーに行ってお金を払えば簡単に手に入る。それはとても便利で、ありがたいことだ。でもその便利さが、自分の生命をとても貧弱なものにしているという自覚もある。だからといって、こんな遊びみたいなプランター栽培で、何かしらの強さが手に入るとも思わない。けれども、何となくやってみたい、何となく興味があるというのは、きっと魂がそれに関心を持っているということなのだと思う。ロジカルに出した結論よりも、この「何となく」の方が、僕は信用できるような気がしているのである。だから僕の水やりは、「何となく土の表面が乾いてきたとき」に行われる。……我ながらとても心配である(笑)。