行動変容 | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」

コロナの収束のために、「行動変容」が必要だと言われる。

 

だが、これまでの人生の中で「行動変容」など考えたこともない。「行動、変よ?」とたしなめられたことなら何度もある。

 

「行動変容」とは、具体的に言えば手洗いの徹底、マスクの着用、咳エチケット、外出を控える、他者と間合いを取る、3密を避ける……といったことだろう。

 

一つひとつはわかるけれども、それを「行動変容」などと大層に言われると、「そんなことが、果たして俺にできるのか……?」という気がしてくる。

 

しかし最近、この「行動変容」がどういうことなのか、ちょっと理解できた出来事があった。

 

いま、我が家には小さな蜘蛛が住みついている。そしてこいつが妙に人懐っこいのだ。ぼんやりテレビを見ていたら足に乗っかってくるし、いちいち僕が行く先に待ち構えているかのように、しょっちゅう顔を出してくる。

 

僕もそのたびに「お前また出てきたんか?」「ヒマなんか?」と話しかけているので、向こうも友達か何かと思っているふしがある。

 

 

 

 

ちなみにコイツは巣を張るタイプの蜘蛛ではなく、持ち前の俊敏さで、コバエや蚊などの小さい虫を捕獲する。実に有能な同居人(同居蜘蛛)なのである。

 

僕はもともと蜘蛛とは仲が良くて、以前住んでいた家の蜘蛛から、夢の中で結婚報告を受けたこともある。その少し前から子蜘蛛をちらほら見かけていたので、「さもありなん」と思ったものである。

 

蜘蛛と仲良くなっておいて一番いいのは、もし僕が地獄に落ちた時に、糸を垂らして助けてくれるかもしれないことである。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』にも見られるように、地獄から助けてくれるのは蜘蛛だと相場が決まっている。絶対に粗末に扱ってはならない。

 

さて、4月も下旬に入ると気温も上がり、たまに部屋にコバエが現れるようになってきた。これまでなら「チッ!」とばかりに手でつぶすところだが、ある時ふと思ったのだ。

 

「俺がこのコバエをつぶすと、アイツ(蜘蛛)の仕事がなくなるじゃないか」

 

そう思って以来、コバエが飛んできても適当にやりすごすようになった。自ら殺生することもなくなり、地獄に落ちる確率も少しは下がりそうだ。

 

もしかするとこれが「蜘蛛の糸」ということなのかもしれない。蜘蛛のおかげで殺生せずにすんでいる。ありがたいことである。

 

そしてはっと気付いた。

 

「そうか、これが行動変容か!!」

 

蜘蛛のことを考えていたら、いつの間にか自分の行動が変化していた。きっと自分ひとりだけでは、このような変化は絶対に起こらなかっただろう。

 

お上に押し付けられる「行動変容」などまっぴらごめんだが、自分と共に生きる人や、動物や、自然のための「行動変容」ならば、どんどんやっていけばいい。

 

とはいえ、あまり勇み足になって独走すると、僕のように「行動、変よ?」とたしなめられるので注意が必要である。

 

 

三層構造マスク