金峯山寺の田中利典さん、聖護院の宮城泰年さん、哲学者の内山節さんが、修験道の本質について語る鼎談である。
ところで、この本を読んでいた頃、ちょうど「川崎殺傷事件」が起こった。そのため、本書で語られる内容を否応なくこの事件と結び付けて考えることとなった。
田中利典さんは言う。
戦後の日本は、帰属するもの、結ばれるものをどんどん失っていく歴史でした。〔中略〕ところが帰属するもの、結ばれたものがなくなってみると、生きる意味とか生の充実感、自分の役割などがわからなくなってきた。(96頁)
川崎の事件も、その背景にはこうした「つながりの喪失」、それに伴う「生きる意味や生の充実感、役割の喪失」があったと思う。そうだとすれば、彼のような事件を起こす可能性は誰にでもあるのだと思う。
特に東京では、「会社とのつながり」しか持たない人も少なくない。なんとなく「会社に勤めていれば自立した社会人」という雰囲気があるけれど、もしその人が結んでいるつながりが「それしかない」のだとしたら、それは自立などではなく、「会社への全面的依存」なのかもしれない。それは都市という社会そのものが、「貨幣への全面的依存」によって成立していることと結びついている。
企業の永続が信じられた高度成長期ならそれでもよかったのかもしれないが、もはやその基盤は崩れ去っている。つまり、現在は「まっとうに」会社勤めしている人だって、いつ自分の拠るべきつながりを失うか分からないのである。
問題は、その人を存在させている関係の一元化である。熊谷晋一郎氏が言うように、「自立とは依存先を増やすこと」だとすれば、それは全ての人にとっての課題のはずである。
あらゆる人間は文脈の中で生きている。たとえば、父と母との出会いという文脈なくして、自分の存在はあり得ない。さらにその父と母を生んだ父と母がいて、彼らの多くは、自分が生まれた土地の「風土の歴史」という文脈の中で生きた人々である。
戦後の高度成長は、そうした人々を労働力として都市に送り込んだ。それは「風土の歴史」という文脈から人間を切り離すことでもあった。
都市は、人間同士の直接的な結びつきを持たなくても、金さえあれば一応は生きていける社会である。さらに、資本主義社会において経済発展を望むならば、むしろ人間的な結びつきは極力排除し、全てのつながりに貨幣を介在させることが求められる。
そうしてそれぞれの個人が「自立」し、貨幣を介した経済的な豊かさを実現させることによって人々は幸せになれる、と信じられた時代があった。
ところが田中さんが指摘しているように、「結ばれたものがなくなってみると、生きる意味とか生の充実感、自分の役割などがわからなくなってきた」のである。
それはつまり、「自分がどのような文脈の中で生きているのか」が見えなくなった、ということだろう。生きる意味は個人の中ではなく、個人を存在させている文脈の中にしかない。もっと言えば、人間に「文脈なき生」はない。それは、たったひとつの単語だけがポツンと存在しても、それだけでは何の意味も為さないのと同じことである。
ところで数年前、文部科学省が「国立大学の文系学部の廃止・縮小」という方針を示したとして話題になったが、これもやはり「生きる文脈が見えなくなった社会」のあり方と関係しているだろう。
この議論は、要するに経済的な観点から「文系より理系の方が重要」という考え方をその背景にしている。しかしこのような考え方が一般化すれば、人間の生きる意味の喪失はますます深刻化するだろう。
文系の学問とは、「自分はどのような文脈の中で生きているのか」を捉え直すための学問なのだと僕は思う。
それだけではない。「他者はどのような文脈の中で生きているのか」についての想像力も養ってくれる。そのために歴史を知り、文学を読み、社会を学び、言語を理解し、哲学をする。
川崎殺傷事件の後、犯人に対するさまざまなバッシングが飛び交った。その犯行は当然非難されてしかるべきだが、その中にはひどく独善的で人間理解に乏しいものもあった。その時に僕の脳裏をよぎったのは、夏目漱石の名作『こころ』の中で、「先生」が「私」に言った次の言葉だった。
「悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか」
念のため付け加えておくと、本来は理系にも「自分の生きる文脈」を捉える役割があったはずだし、今もあるはずだと思う。それが重視されなくなってきただけで。そもそも、理系と文系を分けること自体にも無理があるのだろう。
……と、話が本からずいぶん逸れてしまった(笑)。
本書は「通説の仏教史を疑っていこう」という姿勢に貫かれている。それは、文献のない歴史をも含み込んだ、民衆仏教史の試みでもある。そしてその中心に修験道があった。
ここまでの「文脈」に沿って言えば、修験道とは、「自分が生きる文脈」を知性ではなく、身体性によって捉えようとするものでもある。修験道の先達たちは、開祖とされる役行者から1000年以上に渡って続く「文脈」を感じ取る。ひたすら山を「歩く」ことによって。
僕たちはそのような身体性を、すっかり置き去りにして生きてきたところがある気がする。哲学者の内山節氏は言う。
修験道は山での修行がすべてであり、知の領域で学ぶ信仰ではない。今日的な表現をすれば、「徹底的に身体性に依拠した信仰」である。(17頁)
西洋近代に由来する合理主義、知性万能主義が行き詰まった現在、身体性に依拠する修験道が再び力を取り戻つつあるのは必然的な流れなのかもしれない。だからといって大上段に構えるのではなく、あくまで民衆の信仰としてあり続けるのが修験道の修験道たる所以である。宮城泰年さんの次のような言葉も、まさに民衆の身体性に響く言葉だと思う。
山から教わるものは言葉にすれば「やっぱり山ってええなあ」なんですが、その言葉に込められたものが、山伏の後継者をつくってきた。(163頁)
修行をしていると、人間が率直になっていく。(103頁)
僕たちの生活は本来、もっとシンプルでいいはずなのだろう。それを複雑にしていったのが知性の働きなのだとしたら、修験道はそのような知性の垢を洗い流してくれるものなのかもしれない。そしてそれは、これまでの自分の死であり、新しい自分の再生にほかならない。
修験は山で荒行をしますが、そこで何をめざしているのかといえば、「これまでの自分」の死です。体力の限界まで修行をして、これまでの自分を死に追い込む。そして新しい自分として再生する。(宮城泰年、101頁)
本書は、いまの生き方や社会に行き詰まりを感じている人にとって、これまでの発想を転換する大きなヒントを与えてくれると思う。