ウチにはかれこれ5年ほどの付き合いになる観葉植物がいる。
しかし特に肥料などはやっていないので、だんだん元気がなくなってきている。
そんな時、インターネットか何かで、「米の研ぎ汁が肥料になる」というのを読んだ。
「その手があったか!」
僕はふだん無洗米を使っているので研ぎ汁は出ないのだが、その時ちょうど頂き物のお米があったので、その研ぎ汁を観葉植物にあげた。すると、明らかに葉っぱが色を取り戻し、元気を回復しつつある。
「ビバ研ぎ汁!!」
米を研ぐのが面倒で、ずっと無洗米を使っていたのだが、こうなってくると、研ぎ汁が出る普通の米が欲しくて仕方なくなる。米を研ぐのが面倒なことではなく、ひとつの楽しみになるのだ。
無洗米はとっても便利で楽チンだ。だがもしかすると、それはただ単に、僕が「研ぎ汁の生かし方」を知らなかったからなのかもしれない。それを知ってしまったいま、逆に米を研ぎたくなっている。
実は「便利になる」ということには、万事そういう面があるのかもしれない。
いわゆる「田舎の生活」というのは「不便な生活」だと思われがちだし、実際にそういう面はあるだろう。しかし、そこに暮らす人々は、その不便さを「生かす」ための方法を知っているし、それを「楽しむ」ための智慧を持っている。しかもそれらが、循環する世界として展開しているのだ。
昔はたぶん、「研ぎ汁を何かに利用する」ということも含めての「米を研ぐ」という行為だったのだろう。しかし今や、研ぎ汁はただの「廃棄物」になっている。研ぎ汁と僕たちとの関係が変わってしまったのだ。
哲学者の内山節氏による『続・哲学の冒険』(毎日新聞社)の中で、主人公の少年はこうつぶやく。
僕には物が豊かになっていくっていうことは、そういう物がなければ暮らしていけない人間へと僕たち自身が変わっていくことにすぎないと思う。
僕たちのことを物が豊かな世代だって言うのは、自分たちがそういう豊かな時代をつくってあげたんだという大人たちの思い上がりにすぎない。大人たちは、僕たちを物で包囲された、物がなければ何もできない人間にしてしまったというもっと大事な面に対して、少しも痛みを感じていない。もっとも物がなければすぐ不便だと感じてしまう僕たちにも問題はあるけれど。
便利さとは何だろうと時々思う。パソコンやスマホが普及してから、僕らは人にものを聞くことをしなくなった。ネットで検索すれば、たいていのことはわかってしまう。けれども、僕たちにとって本当に大切なのは、困った時に頼り合ったりする時に生まれる、人との関わりそのものなのではないか。
他人に聞かずとも答えがわかってしまうことは、他人に聞くことの面白さを忘れさせてしまう。僕が「米を研ぐのは面倒だ」と思ってきたように、「人に聞くのは面倒だ」と思ってしまうようになる。スマホのCMでは、スマホが擬人化され、本物の人間は背景へと退く。
もちろん便利になることは悪いことではないと思うけれど、それはもはや、僕たちの生活をよりよくするためのものではなくなっている。
今はむしろ、僕らが求めてもいない便利さを押し付けられ、その結果、「それがなければ生活できない世界」が強引に作り上げられていっているように見える。
マイナンバーを作って欲しいなんて、僕は一度も思ったことがない。
いずれ「全ての米は無洗米にしなければ出荷できない」なんていう法律ができてしまうかもしれない。それは研ぎ汁を肥料にするという「自由」を失うことでもある。