「自由」というと、
「何でも好き勝手にできる!」
というイメージが思い浮かびます。
そしてほとんどの人は、
「自分はいつも自由でありたい」
と思っているのではないでしょうか。
もちろん僕もそのひとりです。
でも、ふと不思議に思うことがあります。
僕はカラオケが大好きで、
歌を歌っている時は最高に幸せなのですが(笑)、
よくよく考えてみると、「歌を歌う」ということは、
「既存のメロディーをなぞること」にほかなりません。
少なくとも、
「何の制約もなく自由に声を発すること」ではなく、
一定の枠組みの中で声を出すことを求められます。
もし冒頭で述べたような「自由」が
人間にとって最も素晴らしいことなのだとしたら、
そんな既存のメロディーなど無視して、
それこそ「好き勝手に」声を発した方が
より楽しいはずなのではないか。
しかし実際はそうではありません。
あくまで、
すでにある「曲」という枠組みの中で、
「うまく歌えたな」とか、
「自分らしく歌えたな」というとき、
人は「自由に歌えた」と
感じるのではないでしょうか。
そう考えると、
「無条件な自由」というのは、
必ずしも人間を自由な気持ちにさせるとは
限らないのではないか、という気がしてきます。
「どの曲を歌うか」とか、
「どんなふうに歌うか」とか、
「誰に向けて歌うか」とか、
それらを私たちは自由に選びます。
でも「この曲を歌う」ということは、
「自分はこの制限を選択する」
ということでもあるはずです。
だけど、それが楽しい。
歌を歌っていると、実に素朴に
「自由ってなんだろう」と、
不思議な気持ちになってくるのです。
ピアニストが、有限の鍵盤から
自由なメロディーを奏でるように、
人間にとっての自由というのは、
実は有限性に基礎づけられてこそ
意味を持つものなのかもしれません。