経緯=たてとよこ | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」

「経緯」という言葉がある。

 

「その仕事を始めた経緯を教えてください」「その事件に至った経緯は……」などと使われる。【経緯】と書いて、「けいい」とも「いきさつ」とも読むらしい。いずれにせよ、僕らはおおよそ辞書にあるように「物事の経過」といった意味で使う。

 

しかし改めてこの字を見てみると、経緯というのは経(たて)と緯(よこ)である。それが交わるところに「経緯」がある。イメージとしては、「経(たて)」が自分で、そこに「緯(よこ)」という他者や出来事が重なってくるような感じだろうか。つまりその人の「経緯」を聞くことは、その人と他者との「重なり方=関係」を聞いているのである。

 

「経緯」とは「いきさつ」のことだが、それは決して自分ひとりで決まるわけではなく、他者との関わりの中で決まっていくということが、この言葉の中にすでに含まれているというわけだ。

 

「だからどうした」という話だが(笑)、ふと「経緯」という言葉が「たてとよこ」であるということに気づいて、「へー」と思った次第である。いまさらで恐縮ですが(笑)。

 

さらに言えば、さっきは「経(たて)」が自分だと書いたけれど、実は「緯(よこ)」と重なっていない「経(たて)」は存在しない。地球儀の経度と緯度は一定の間隔ごとに引かれた線で表されているけれども、実際にはそこに「間隔」などなくて、経度と緯度は線ではなく面として存在している。だから、どの経度も緯度と重なっているし、どの緯度も経度と重なっている。だからその人がいる場所は、経度と緯度との関係によって示すことができるわけだ。

 

僕らの存在というものも常にそういうもので、単体として存在するということはありえない。存在するところには必ず関係があり、むしろ関係があるから存在がある。

 

ちなみに、僕がこんなことを書くことになった「経緯」を「正確に」話そうとすれば、たぶん何時間もかかってしまう。それだけ誰もが複雑な「たてとよこ」との関わりの中で生きているわけである。しかもそこに「ななめ」の糸までからんできたりするから、人生とはやっかいで、またおもしろいのだろう。

 

 

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