「書だ!石川九楊展」@上野の森美術館 | 杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」

最近ちょっと「書」という表現が気になっていたこともあり、ふと思い立って、上野の森美術館で開催されている「書だ!石川九楊展」に行ってきた。

 

「書の解体と再構築」という薄っぺらい表現で終わらせてしまうには、あまりにもったいないし、申し訳ない。彼の人生とともにあった「書き続ける」というプロセスを、「解体」とか「再構築」とか、ひとつの大きな枠組みで捉えようとすること自体が、卑しい精神の営みであろう。

 

彼はインタビューか何かで、「書」には「決断」と「持続」と「断念」というプロセスがある、ということを言っていたような気がする。そしておそらく、この展示のタイトルにもなっている「書だ!」という言葉にも、彼が自ら書いてきたものを「書だ!」と呼ぶことに対する「決断」「持続」「断念」が含まれているのではないか。それは一種の「あきらめ(諦め=明らめ)」である。

 

展示を見ている途中、会場の中にある喫茶店から、「書」について語る男性の声が聞こえてくる。別に盗み聞きしようと思ったわけでもないのだが、聞こえるものはしょうがない。

 

「書は芸術というより文学である」

「文字の前に、書くという行為がある」

「だから『文字』よりも、書くという行為を含んだ『書』に、文学の本質があるのではないか」

 

しっかり聞いていたわけではないのでうる覚えだが、そんなことを言っていたような気がする。「もしかして、石川九楊さん?」と思ったが、わざわざ顔を見に行くのもいやらしいし……。というわけで、結局のところその正体は分からずじまいだった。

 

展示をひととおり見終わってから、書や書籍の販売フロアに行くと、そこにまぎれもなく石川九楊さんご本人がいらっしゃった。やっぱりさっきのは石川さんだったのか……と思ったが、どうだろうか。

 

「文字を見ればその人の人間性がわかる」というのはよく言われることだが、書家の文字というのは、どうなのだろう。それはひとつの表現であり、作品であり、商品でもある。そういう「書」と、僕ら一般人が何気なく書いている「文字」と。これらはやはり、別のものとして考える必要があるのかもしれない。

 

だが、書家による「書」だろうと、一般人による「書き文字」だろうと、そこに「隠しきれない何か」、「否応なく表出する何か」というものはあるような気がする。そしてそこにこそ、「書く」という行為の、不思議な魅力があるのではないか。

 

「書く」ことと、「読む」こと。その何かを表現する行為と、それを読み解こうとする行為の間に、文学というものが成立する。

 

 

 

 

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村