人間は怠惰な生き物である。一日はあっという間に過ぎ去ってゆく。別にそれでまったくかまわないのだが、それをゆるさない状況があったりもするだろう。そうでなくても、人間とは煩悩に手足が生えた存在なので、必要以上に「充実した一日を過ごそう」などと考えてしまう。そして最終的には「充実した人生を生きたい」と思う。実に欲深いことである。
こういう問題に対してよく言われるのが、「メメント・モリ」、すなわち「死を想え」という言葉である。「どうせ明日には死ぬかもしれないのだから、今を思いっきり楽しもう」というわけだ。
しかし平均寿命が80歳にまで上がった現代において、この「死を想え」というのはなかなか難しい注文である。死がより身近だった時代には、「明日は我が身」とすんなり思えたのかもしれないが、「死が隠された」現代社会では、それはもはや「非日常」の世界である。「非日常」とは文字通り「日常に非ず」なのだから、それを日常的に意識することは現実的ではない。
ではどうすればよいのか。
試しに、人間の一生を一日に置き替えてみよう。そうすると、単純に考えて、朝起きた時が「誕生」で、夜寝る時が「死」ということになるだろう。だからここで「メメント・モリ」を捉え直せば、「寝る時を想え」ということになる。もしあなたが毎日23時に寝ているのならば、「私は23時には寝るのだ!」ということを強く意識せよ、ということである。これは「死を想う」よりもはるかにイメージしやすい。「死」は非日常だが、「睡眠」は日常である。そのぶん「今」という時間を、より具体的に感じることができるのではないだろうか。
もちろん、意志の強い人はそんなことをせずとも、「理想の一日のスケジュール」をつくって、それを実践すればよい。しかし僕のように意志の薄弱な人間は、もっと単純に「就寝時間」だけを強烈に意識する、という方が有効なのかもしれない。それは、一日単位で自分の「死」を擬似的に意識することである。「死を想う」だと「まだまだ先のことだし……」となるが、「23時に寝る!」だと「のんびりしてたらすぐ来るな……」と思いやすい気がする。
ところで、朝起きた時が「誕生」で、夜寝る時が「死」だとするならば、寝ている時間というのは、おそらく「死んでいる時間」とか「あの世にいる時間」ということになるのだろう。そして「寝るのが嫌いだ」という人はほとんどいないし、むしろみんな「もっと寝たい」と思っている。
そう考えると、「死んでいる時間」とか「あの世にいる時間」というのも、実はそんなに悪くないどころか、とっても心地よいものなのではないか、という気がしてくる。死ぬことが、「おやすみ〜」と言って布団に入るようなことだと思えば、これはなかなか悪くない。布団に入るとき、「なかなかいい一日だったな」と思えるように、自分が死ぬとき、「なかなかいい一生だったな」と思えれば、それで万事よいのではないか。
そう考えると、一生というものは、そんなに重く考えるほどのことではないのかもしれない。